メメント・モリ

コロナ騒ぎの中でSNSをツラツラ読んでいると、ウィルスと細菌が同じものだと思っている人がけっこういるような気がする。かくいう私も、この二つがまったく別の種類のものだと知ったのはそれほど昔ではない。10年くらい前に分子生物学者・福岡伸一さんの「生物と無生物の間」というベストセラーを読んで、細胞を持つ細菌は正真正銘の生き物だが、細胞を持たないウィルスは生物でも無生物でもないと知り、へぇーと思った。

ウィルスは全く代謝をしないという意味において、生物とは言えない。細胞がないから自ら分裂して増えることはできないが、感染した相手の細胞を使って自己を複製し増殖できる、という意味で完全に無生物とも言えない、のだそうだ。

▲本文とは無関係ですが、夏野菜といえば茄子。茄子と油ってどうしてこう相性がいいんでしょうねー

 

生命あるいは生物の定義はひとつではないのだろうが、私はこの際あらためて、5歳の子供に「生きものって何?」と聞かれたら何と答えるか、自分なりに考えてみた。

すぐ降りてきた答えは「いつかは死ぬもの」だった。別に哲学的に高尚なことを言おうとしているのではなくて、死んでることの反対が生きてること、という単純な思考だが、これを裏返せば、生きてないものは死なない、ということである。ウィルスが生物でないなら、ウィルスが「死ぬ」ということはないはずだ。じゃあ(ワクチンなどで)ウィルスに感染しないようにすることはできても、ウィルスそのものは決して滅亡しないのか?

と素朴な疑問を抱いたものの、怠け者なのでその後ちゃんと調べることもしていなかった。ところへ今般、福岡さんの別のベストセラー「動的平衡」という本を読んだら、ウィルスは核酸(DNAまたはRNA)がタンパク質のコートを纏ったもので、(放射線などを当てて)DNAを破壊すればウィルスは「死ぬ」と書いてあった。

なるほど。では、ドアノブをせっせとアルコール消毒すればウィルスは拭き取れるかもしれないが、そのDNAは破壊されないからウィルスは拭いたキッチンペーパーに移動するだけなのよね?ゴミ箱の中でもずっとそのまま、ごみ回収車の中でもそのまま、焼却炉の高温でやっとDNAが壊れて「死ぬ」のかしら?残念ながらその辺はコロナ前に書かれた福岡さんの本には書いていないので(そんなことよりもっと面白いことがたくさん書いてある)、詳しい人がいたらぜひ生物学音痴にもわかるように教えてほしい。

さて、今回こんなことを書くのはウィルスと細菌の違いについて世を啓蒙したいからではない。先ほどの「いつかは死ぬもの」から連想して近ごろ考えることを共有してみたかったからだ。

人間いつかは死ぬ、というのは誰でも知っている自然なことだ。なのに、我々は「死」というのものを遠ざけようとしすぎてないか?退治すべき悪者扱いしすぎてないか?どうも戦う相手を間違えている気がするのである。もちろん暴力や事故による死は根絶を目指すべきだろう。そして、早すぎる病死もなるべく減らしたい。実際そうやって人類の平均寿命はものすごく伸びてきた。問題は、早すぎるか早すぎないかの線引きがどの辺りか?である。

個人的には、還暦すぎたら生物学的にはもう「早すぎる」とは言えないと思っている。ただ、現代では還暦を過ぎても親が元気だったり、子供がまだ学生だったりして、そういう意味で死ぬには「早すぎる」状況がほとんどだろう。私も両親が存命のうちは何としても死ねない。が、二人ともいなくなったらもういつお迎えが来てもいいと感じている。実際、私の世代が適当なところで早く退場してあげることは、次の世代にしてあげられる最善のことだと思うのだ。

いやいや、自分はいま健康で死ぬ気がしないからそんな偉そうなことが言えるのだ、という気もしないではない。2年ほど前、年の離れた妹のようだった三十そこそこのSちゃんがあっけなく死んでしまったときは、実際、「死」を恨んだ。だが5年前、当時78歳の母が大病して生死の間をさまよったときは、「どんな姿でもいいから生きていてほしい」とは思わなかった。いま87歳になる父がまた入院しているが、本人にもう生きる気力がないのであれば、無理に「がんばれ」と言う気にはなれないし、自分が父の立場だったら言ってほしくないと思う。

福岡氏のいう「動的平衡」とは、生命はまさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」だということだ。全身の細胞は常に壊されては新しく作り替えられている(それ以上数は増えないという心筋細胞や脳細胞も、それを作っているタンパク質分子は入れ替わっている)。だから細胞レベルでは数年前の私と今日の私はまったく「別人」である。が、そういう流れの中で秩序の平衡を保っているものこそが生命だと。そうやってエントロピーの法則に先回りして、常に古いものを捨て新しいものに置き換えることを繰り返す柔軟な構造こそ、生命だと。(ただし、やがて最後はエントロピーの法則が勝ち、秩序は乱れ、生物は死ぬ。)

私が膝をうったのは、これは個体だけでなく種全体にもいえるという部分だった。福岡氏曰く、

「エントロピーの法則がこの世界を支配する限り、一つの生命体が永遠に生き続けることはできません。その意味で、生命現象から見れば、個体の死は最大の利他行為です。ある個体がいなくなるということは、住む場所や食べるものが別の個体にバトンタッチされ、新たな生命がはぐくまれることを意味する。」(動的平衡ダイアローグより)

そう、個体の死は利他行為なのだ。私の感覚は正しかった!

・・・と思ったわけだが、10年後には私の身体は脳も含めて今とは別のものだから、死んでも生きてやるぞ!とか全然違うことを思っているかもしれないネ(笑)。

夏よ来い、桃よ実れ

先週、facebookの「過去の思い出」のおかげで、1年前の今頃はクールシェアと称して近所で昼間から冷酒を飲んでいたことが判明した。既にそれほど暑かったのだろう。もう梅雨は明けていたのかしらん。なのに今年の福島市は昨日までずっと雨模様。最高気温は20度そこそこで、肌寒いくらいの気候が続いていた。今日は久しぶりに晴れ間がのぞき、厚手の洗濯物をめいっぱい干したところである。

それにしても九州の豪雨の状況は大変だ。福島でも大被害が出た去年の台風19号で初めて片付けボランティアを経験した身としては、いま被災地ではどれほど人手が欲しいだろうかと思うと胸が痛いが、距離もありコロナもあり、駆けつけるのは無理だ。できる限りの寄付で許してもらうしかない。

福島では今回の長雨で人的被害はまだ出ていないが、これだけ低温日照不足が続くと心配なのは農作物だ。自分は農家でなくても、福島市民は今の時期、おらが代表的特産品である「桃」の生育状況にはとても敏感である。お中元・お使いものとして桃を予約注文している人も多いのだ。自然のものだからいくら人間ががんばっても不作の年は不作なのだが、生産地の状況を知らない消費者には通じない。いくらなんでもこの週明けには、太陽ギラギラ高温多湿、冷酒がおいしい日本の夏が来てほしいのだが・・・。

通販やお使いもの需要だけでなく、現地でもぎたてを食べる「くだもの狩り」も一部の観光農園では大きな収入源で、これも今般のコロナでかなり影響を受けている。6月ひと月の短期決戦であるサクランボ狩りは、県外客がほぼゼロのなか、福島市の観光協会が市民向けのキャンペーンを打って多少は挽回できたようだが、いまからがシーズンの桃狩りはどうなるか。今般のGOTOキャンペーンを巡るドサクサも、首都圏から観光客を迎える側としては複雑な心境だろう。

ついでに感想を言えば、新型コロナに対する反応を原発事故の放射能に対する反応と同列視する向きもあるが、この比較はよほど丁寧にやらないと誤解を招くのではないか。放射能は人から人へ感染しないが(正確には放射性物質が洋服などにくっついて移動することはある)ウィルスは感染するという違いは明確なので、その意味では、あのとき「放射能がうつる」といって福島から来た人が差別を受けたことと、いま無症状も含めたコロナ感染者が多い東京から来る人を避けることは、「同じ」ではないはずだ。ただ、「まだわからないことが多く専門家の間でも意見が分かれるもの」に対する一般人の反応が、いずれの方向にも過剰に振れがちな状況は似ているなあと思う。なるべく多様な情報を収集して自分の頭で考えるしかない。

そんなwithコロナ時代、オンライン飲み会にもそこそこ慣れたが、どうも飲酒量が多くなるという副作用があるようだ。同じ「帰る心配をしなくていい」飲み会でも、友人と温泉宿でゆっくり杯を酌み交わすほうが、心身の健康にとっては絶対いいに決まっている(とオバサンは思う)。

温泉、くだもの狩り、絶景ドライブ。オンラインでは体験できない͡͡コト消費が全面復活する日が早く来ることを祈るばかりだ。

(写真は今月初めに行った楢葉町の居酒屋にて。やっぱりお酒は対面がよい。)

自称ライターひとりごと

前回の記事で、「ネット上にはまったく読むに値しない情報が溢れている」などと書いたあと、「このブログなんていい例だ」と付け加えるべきだったかしばらく考えたのだが、それほど卑下したものでもないかと思ってそのままにしておいた。

このサイトは一応、仕事用の自己紹介とポートフォリオを兼ねてはいる。が、元はといえば約5年前、まだ役場サラリーマン時代に東京の知友人たちへ近況を知らせたいというくらいの動機で書き始めたブログだ。その体裁は3年前にフリーになった後も原則的に変えていないから、記事内容にライター稼業の広告宣伝的要素は全くない。実際、このサイト経由で知らない方から仕事の問合せをいただいたことなど、自慢じゃないが皆無である(笑)。

もちろんこの場で自分の主義信条を主張するつもりもなく、誰の毒にも薬にもならない(そういう意味ではまさに無価値である)、ただの下心のないエッセイとして気軽に読んでもらって、たまにクスッとしたりホロっとしたりしてくれたら御の字だと思っている。

それでも数字など引用するときは一応裏を取るし、(滅多に出さないが)固有名詞の確認も怠れない。そういうこともあり、書いて公開するまでにはそれなりに時間がかかるが、誰に急かされる訳でもないから、いくらでも寝かせて推敲できる。では本業の書き仕事はどうかというと、こちらも基本的には自分の納得いくまで文章を練る時間をもらえるケースがほとんどだ。(ちなみに最近は、「書いたもの」で紹介しているような署名つき読み物記事よりも、企業さん向けのコピーライティングやビジネスライティング、翻訳、編集リライトなど、黒子に徹する仕事のほうが圧倒的に多い。)

ところが、世の中の「ライティング」仕事の中には、ものすごいスピードで文章を量産するカテゴリが存在するようなのだ。たまにSNSで流れてくるライター募集の情報を見ると、「1本3,000〜5,000字、月10本以上、1文字2円」などという記事作成仕事があってビックリする。3日に1本5,000字を仕上げるとしたら、とても現地インタビューや背景・周辺の取材などしている時間はなかろう(それで1本1万円、月10万円だから、たぶん他の仕事もしないといけないだろうし)。自身の経験値と自宅での情報収集だけでコピペでないオリジナル記事を量産していくというのは相当なスキルだ。私にはとても真似できないと脱帽する。

が、脱帽するのは真に「相当なスキル」を持っている人ならば、だ。個人のブログならそれこそ何をどう書いても基本的には本人の勝手だが、曲りなりにも「メディア」を名乗るサイトの中にも、首を傾げるような、読むに耐えないコンテンツが少なくないのが現実である。これは下調べも裏取りも確認も推敲もする余裕なく、右から左へ書いては納めるしかないライターか数多いる(そしてそれをチェックできる編集者がいない)ことの証左だろう。

これだけ誰でもwebメディアを開設できるようになった時代、そこに特化したwebライターという専門職が発達するのは自然だろうし、専ら広告収入に頼るメディアならばライター報酬にも自ずと限度があるとは思う。この世界にも安かろう悪かろうはある程度当てはまるから、ネット情報はしょせん玉石混淆と割り切って、読む方のリテラシーを上げる方が正解なのかもしれない。

それにしても、どうもお手軽なフリー稼業(副業?)としてライターを自称する人が多いのにつけ込んだ搾取に近い仕事が野放しになっていて、結果ネット全体に「しょうもない情報」が無意味にあふれているような気がしてならないのだが・・・(それ以前に、SNS上で流れてくる広告投稿など日本語の間違いがひどいのも散見され、いちいち腹を立ててるオバサンは疲れてしょうがない)

まあ、本当に価値のある情報はきちんと対価を払って入手せよということだ。もちろん、中にはこれをタダで読ませてもらっていいのか?というすばらしいネット記事にも遭遇することはあるけれど、それは類稀な幸運と考えるべきだろう。ということで、新しい生活様式の中、昭和生まれのフリーライターはネット依存を減らし、紙の新聞購読を再開しようと考えているところである。

(写真は、いろいろ違う角度から眺めた会津磐梯山)

【追伸】ブログ更新お知らせは引き続きfacebook様などのお世話になりますが、気が向いた方ば直接ブログフォローしていただけますと著者はたいへん喜びますm(__)m

食べる瞑想

今般、国から10万円がもらえるという。私は今のところ、有難いことに家賃や光熱費が払えなくて困っているような状態にはないので、一定額を適切と思う団体に寄付した後、残りは地元の飲食店の応援に使うべく、先月からせっせとテイクアウトを試してきた。

AFYL4371とはいえ一人で食べられる量にはおのずと限界があり、おひとりさまはこの方面では大した貢献ができないことがほどなく判明。加えて、2週間ほど前から歯を悪くしてしまい、治療が終わるまでいつものような大食ができない状態になっている。

身体のどの部位でもそうだが、ふだんと違う状態になって初めて「ふだん」というのがどれだけ有難いことかを悟る。歯が欠けてできた隙間にモノが挟まって痛むので、一度に口に入れる食べ物の量を減らし、入れたらうまく左右に散らしつつ、隙間に挟まらない部分で慎重に咀嚼しないといけない。

おかげで食べている間は全神経を口内に集中することとなり、

・・・いま私は右で噛んでいる。
・・・いま私は左の4番で噛んでいる。
・・・いま私は舌と上顎で飯粒をすりつぶしている。
・・・いま飲み込める状態になった。

と、思いもかけずヴィパッサナー瞑想の実践になっている(笑)。

そもそも歯が欠けたのは寝ている間の噛みしめ癖のためだ。ずいぶん前から歯医者にいくたび指摘されてきたことで、歯を保護するため就寝中につけるマウスピースも十年以上前から持っているが、つい着け忘れて寝ることのほうが多く、大して役に立っていない。対症療法だけでなく噛みしめ癖そのものを治したいのだが、いま診てもらっている歯科医によれば、噛みしめはストレス発散であり、がんばって癖をなくそうとしない方がいいんだそうである。

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しかしなあ。私のストレスレベルは、6年半前に「稼いでナンボ」の東京砂漠を離れて福島に来た時点で半分以下になり、3年前にフリーになった(=プチリタイヤした)ときから限りなくゼロに近いと思ってるのだが・・・。どうやらストレスというのは仕事のプレッシャーや人間関係だけから来るものではないようだ。

もともと家で仕事が基本、外食も稀な私にとって、昨今のステイホームも新しい生活様式も大した変化とは感じていないのだが、テレビやネットからの情報過多で知らず知らずストレスをためているのだろう。

実際ネットには全く読むに値しない情報が溢れている。いまや完全オフラインの生活など不可能だが、せめてSNSで流れてくる動画で時間をつぶすのは止めようと改めて心に誓う。(ちなみに、昔から一度は行ってみたいと思っているヴィパッサナー瞑想合宿は10日間の完全デジタルデトックスであるが、まだその機が巡ってきていない。「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリが実践してるらしいので最近は大人気かもね)

ともかく早く歯が治って、家でも外でもまたモリモリ食べられますように!

ということで、10万円の残りは治療費に消える見込みであります。

(写真は、お気に入りのベトナム料理店のテイクアウトと、先月友人宅でごちそうになった手料理)