このブログが本になります

いつもご覧いただいているみなさま、今日はじめて訪れてくださったみなさま、どうもありがとうございます。

Life in Fukushimaのタイトルでブログを書き始めて7年半。その前身のブログも含めると約9年間。福島に来てから思ったこと、経験したことを綴ってきましたが、このたび、その内容を再編集して(ちょっとだけ書き下ろしも加えて)一冊の本にまとめることにしました。いまの予定では、紫陽花が咲き始める頃には本屋さんに並ぶ(正確には本屋さんで注文できる状態になっている)と思います。

それにあわせて過去記事は大幅に整理しました。また、出版を機にこのLife in Fukushimaブログはお役御免とし、新たなページに新たな心境で新たな文章を書いていきたいと考えています。時期がきましたらご案内しますので、今しばらくお待ちください。

これまでご愛読ありがとうございました。書くことくらいしか能のない五十路のおばさんライターを(てかもうすぐ六十路!)これからもどうぞご贔屓に・・・

コシャリとメルベイユを食べながら

新聞や経済誌を読むと、人口減少・高齢化が進む日本は「国力」が低下した、という意味のことが書かれている。だから政府はこれ以上の少子化に歯止めをかけるのに必死である。

もちろん日本国内だけを見て短期的に考えれば、頭でっかちのいびつな人口構成による医療や社会保険の破綻可能性は「今そこにある危機」だから、とりあえず(移民も含めて)若年層の数は増えてくれた方がいいとは私も思う。また、国内市場は縮小するので、日本株式会社としては人口がまだ増え続ける中東・南アジアやアフリカに活路を見い出せ、という理屈もわからないではない。

だけど、もっと根本的なところで彼らの論理は何か間違ってる気がするのである。

辞書を引くと「国力」とは経済力とか軍事力とかの総体だそうである。だけどやっぱり大もとは経済力だろう。経済力=豊かさ。国民みんなが豊かになるためにはパイが拡大し続けなければならない。パイが拡大し続けるためには市場が拡大し続けなければならない。市場が拡大し続けるためには人口が増え続けなければならない。(軍事力だって、結局は兵器を買うおカネとそれを扱う人間がいないと始まらない。)そういう理屈にしか聞こえないのだ。

でも、これは普通に考えたらとうぜん無理な話である。日本でその理屈が正しいなら他の国でだって正しい。世界のすべての国において、人口が増え続けることが経済的に「善」とされ、医療技術の発達により人はどんな状態であれ1日でも死ぬのを遅らせることが倫理的に「善」とされる。その末はどうなるのか。

世界の人口が一方的に増加し続ければ、理論上、いずれ地球上は人類で隙間なく埋め尽くされる。それは単純な物理的真理だ。そんなのあり得ないと笑う人は、そうなる手前のどこで「人口増=善」という現在の「常識」が覆ると考えているのだろう。

もっとも、世界人口はあと数十年でピークアウトするという推計もある。100億に達してから頭打ちになるとか、いや90億がピークだろうとかとか、いろんな試算があるようだが、幸いこのまま右肩上がりではないかもしれない。

これまでの歴史が教えてくれるところでは、貧しい国が豊かになれば一人の女性が産む子どもの数は減る。遅かれ早かれ人口維持可能な2.06を下回るまで減る。豊かになることと、人口が増え続けることは、長い目で見ると両立しないようにできている。あえてこれを自然の摂理と呼ぼう。これも普通の人なら当たり前に知っている事実ではなかろうか。

それなのに、経済紙誌に論説を書くような頭のいい人たちは、どうして「人口増加で市場拡大して豊かになる(あるいは他所の人口増加地域に市場を求めて豊かさを維持する)」という単線的なロジックしか提供してくれないのだろう。

だからといって、そもそも豊かさとは何かとか、目指すべきは豊かさじゃなくて幸せである、みたいな哲学的講釈をしてほしいわけじゃない。

中東やアフリカでついに人口減少が始まったとき、その単線的ロジックは通じなくなる。世界人口の増加を前提としない経済成長(成長しなければならないとすれば)のあり方こそ議論してほしいのだ。それこそ「新しい資本主義」なんじゃないのかしら?

……って、やっぱりこれは豊かさってナニ?というハナシになるんだろうね。

(写真はこの正月、墓まいりの帰りに食べたもの。私の父は長男で実家は川崎なのに墓はなぜか新宿区の神楽坂近くにある。1枚目=ベルギーはフランドル地方の伝統菓子、メルベイユとやら。アジア初出店だそうで大人気。2枚目=その前に入ったアラビア料理店にて初のコシャリ。ベジだがけっこうヘビーだった。こういう食生活ができることを「豊か」といい、この状態を維持するためには経済成長が必要なのか……)

待ち人きたよ

12月30日。小さな福島駅は大きな荷物を持った人でいつになく賑わっていた。東北新幹線の改札前は降りてくる人、それを待つ人、これから乗る人でいっぱい。駅前では車寄せに入りきれない送迎車が周辺の道路に列を作って駐車している。コロナ禍スタート直前の2019年末もこれほど混雑してた記憶はないのだが。

駅ビルの中の飲食店も久しぶりの大繁盛だったろう。私も上りの新幹線に乗る前に腹ごしらえと思い、いつも前を通っているのに入店したことのない和食屋に入ってみたら、まだ11時半前なのにほぼ満席であった。

客の回転も速く、店員たちが大忙しなのは歴然だった。全員が若い女性だ。通常の接客に加え、入口では検温、空いた席のアルコール消毒という「ひと手間」がまだ続いている。にも関わらず、彼女らの態度には「これ以上仕事増やさないでくれ」オーラがみじんも感じられない。感心した。

隣のテーブルでは年配の女性が2人、やれ◯◯を少なくしろ/多くしろ、やれ箸を落とした、やれドレッシングの蓋が開かない、と店員を呼ぶのだが、そのたびに嫌な顔ひとつせず、当意即妙に対応する。反対隣の常連客らしい年配男性2人が顔見知りの店員を呼び止めると、他の客の邪魔にならない程度の、これまたちょうどいい加減の会話をアドリブで展開する。大したものだ。

全ての客にいつ何時も平常心で接し、臨機応変な応対ができるかどうかは、訓練はもちろんだが、やはり持って生まれた性格も関係すると思う。

私自身、接客という仕事が全くの未経験というわけではない。3年前に始めた観光案内所のバイトは、最初は緊張したが今では次のお客さんが何を尋ねてくるかけっこう楽しみになっている。いつぞや大型連休の温泉旅館で中居のバイトをしたときは、ヘトヘトになりながらも一期一会の出会いの中で勝負するやりがいは何となくわかる気がした。

それでも今日の和食屋の店員が私に務まる気はしない。今年最後にいいもの見せてもらった。年末年始も休み無しの皆さん、お疲れさまです。

そんなことを考えながら、東京へ向かう新幹線に乗る。大半の帰省と逆方向とはいえこの時期さすがに混むだろうと、比較的空いていると思われる各駅停車自由席にしたら、見事にガラガラであった。

ウトウトするうち約2時間で東京駅に到着。案の定、そこは福島駅の「混雑」が事実誤認と思える人混みだった。

さて、これから実家で年越し1週間。帰る家があること、待っている家族がいることがどれだけ有り難いかはわかっている。だからせめてこの7日間、年相応のボケが入った母の言動に、いちいち嫌な顔せず声を荒げず当意即妙の対応をするよう努力しようではないか、ワタシ。

・・・と思いましたが、実家到着後ここまで書いてアップする前に、食卓上の紙の山の中に謎の通販請求書を見つけてしまい、さっそく一発(ごく控えめに)怒鳴りました。

今年も他愛ない話にお付き合いくださりありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

写真=去年の今ごろ宿泊した福島市内の温泉宿からの眺め。

東電の広告

これね。昨日の日経に出ていた東電の広告。ALPS処理水の海洋放出についての理解を深めてもらうために、「科学的な根拠に基づく情報を国内外に分かりやすく発信していきます」っていうのが、これなんだろうか?

処理水の海洋放出について個人的意見はここでは置いといて、もし私がマーケティングの授業で「処理水を海に流しても大丈夫だということをわかりやすく発信する広告を作る」という練習課題をもらったら、どうするかなと考える。おそらく、トリッチ君みたいなゆるキャラをつくって、僕たちは自然界にもいっぱいいるよ、みたいなイラストを作るのかしら。でもそれこそ去年復興庁が作ろうとしたチラシと動画なんだよね。トリチウムを可愛らしく表現したイラストが使われ、「問題を矮小化している」などの批判を受けて削除した、っていう。

そっちの方向にいくとそうやって非難されるので、やっぱりこういう「科学的な説明」を文字で淡々と述べる「真面目な」スタイルにせざるを得ないのかなと思う。

メインコピーだって、単純に訴求力だけを考えたら、「心配無用。処理水を海に流したことが原因であなたが病気になることはありません」みたいなキャッチにすべきしゃないか。本当に達成したいのが、「科学的に安全だという理解」ではなくて「大丈夫なんだなという安心と納得」なのだとすればね。でないと「風評」はなくならない。

全町避難時代の浪江町役場で広報の手伝いをしていた頃からずっと感じていることだが、放射線や原発廃炉に関するリスクコミュニケーションは本当に難しいと思う。放射線のセミナーや研修も何回も受けたが、多くの人が親しみやすい方法で平易に伝えようとしたものに対しては、物事が単純化されすぎているのではないか、という疑念がわく。かといって詳細な情報を網羅したものに対しては、専門的なことを並べて素人を煙に巻こうとしているのではないか、という拒否感を持つ。人間、そういうものだ。

国も東電も専門家も、このくらいのトリチウム水なら海に流しても問題ない、大丈夫、とは書けない。環境中の放射線量は、このくらいなら問題ない、大丈夫、とは言えない。このくらいなら他所でも存在します、このくらいなら他所でも放出してます、(あとはあなたが判断してね)としか言えないのであれば、「安心したい、安心させてほしい」私たちと、「理解を深めてもらいたい」だけの国・東電との間のギャップは埋まらないだろう。

トリチウムは大丈夫でも体内で「有機結合型トリチウム」になったら内部被ばくが心配だ、とか。そもそもトリチウム以外の核種がちゃんと除去できていないんじゃないか、とか。モルタル固化とか他の案は真面目に検討されたのか、とか。そういう疑問に、QA形式で答えてる経産省のページなんかもあるようだが、推進側の言うことがハナから信用されてない場合、双方の主張は永遠に平行線である。

どだい、完全なる「安心と納得」を望むのは無理なのだ。あちら立てればこちらが立たずの中で、ぶっちゃけ、経済的にも環境的にも折り合える現実的な選択肢はこれしかないらしい、という「消極的理解」だけでもどうやって深めるか。そういうことなんだね、この広告で言ってるのは。

メメント・モリ(3)

最近、死ぬことばかり考えている。もちろん自殺願望があるわけじゃない。

この夏はテレビで「今日はコロナで何人死にました」と毎日のように聞かされていたが、コロナ以外では何人死んだのか、どうしてそっちはニュースにならないのか、不思議な気がした。

ひとは誰でも死ぬ。いつかは死ぬ。病気か事故か天災か戦争か、わからないけど、必ず死ぬ。運よく事故死や災害死をまぬかれても、ガンか脳卒中かコロナか、わからないけどいつかは間違いなく死ぬ。若くたって運が悪ければ死ぬ。残された者がどんなに辛くても悲しくても、生物にとって「死ぬこと」自体は自然なことだ。それは誰でも知っている、当たり前のことだ。

なのに、いざそのときが近づくと、みな全力でそれを排除しようとする。「死」は忌むべきものとして嫌われ、悪者扱いされる。生物として本能的に死を恐れるのは当然だけれども、必要以上に「死」を攻撃するのはいかがなものか。

もちろん自死には問題があると思う。でもそれとて、たかが200年くらい前までの我が国には切腹や殉死という風習があった。美談として語り継がれてきた年末恒例の「赤穂浪士」は集団自殺の話である(そういえば近年は、年末になっても番組をやらないようだが、自殺を美化しちゃダメという配慮なのかしらん)。人権という概念が定着した近代において殺人は犯罪だが、偉い人の一存で下々の首がカンタンに切り捨てられた時代はそう遠い昔ではない。(ちなみに、新石器時代の埋葬跡を調べると、当時は残虐な暴力死が多かったそうである。)

そんな死に方も含めて人類史のほとんどの時代、というかつい最近まで、「死」はもっと自然でもっと身近なことだった。ワクチンも抗生物質もない時代、大火事だの戦争だの飢饉だのが日常に近かった時代、あっという間にすぐ死んでしまうからこそ、人間はもっと真剣に生きていたんじゃなかろうか。

どこかの製薬会社の「治せない病気はなくなるかもしれない」というCMを見たときは背筋が凍った。恐ろしい病気が治せるのはすばらしい。自分がつらい病に侵されたら、やっぱり治してほしいと思うだろう。でも、ほんとうは人が病気で死ねなくなることの方がもっと恐ろしいのではなかろうか。

私もあと数年で赤いちゃんちゃんこを着る歳になるが、これからはもっと「死」を身近に感じて生きていたいと思う。

ところで人間、死ぬときはやはり両親が迎えに来るんだそうである。だから毎日、父の遺影に「あまり遅くならないうちに適当なところで迎えに来てください」と手を合わせている。それも、いま健康だからこそできることなのだけれど。