ちょっと悲しいことがあった

朝、いつもの荒川土手を散歩していると、ケーンという鋭いキジの鳴き声がする。実は何度聞いても「ケーン」には聞こえないのだが、この国鳥は桃太郎の家来だった時分からそう鳴くことに決まっているのだから仕方ない。7年と少し前に福島県に越してきて(当時は二本松市)、生まれて初めてあの独特の音を聞き、「あれがキジだよ」と言われてビックリしたのを思い出す。

この時期は福島市内でもちょっと市街地を離れるとキジの声を聴くのは珍しくない。ただし、ふつうは声はすれども姿は見えず。用心深く茂みの中に隠れていて滅多に姿を現わさないものだが、先日は鳴き声のほうに目をやると、広い河川敷の中ほどに2羽も容易に見つけることができた。

なぜかというと、先頃このあたりの河川敷の植生が根こそぎ伐り倒されてしまったからだ。ここには以前、うっそうと茂った草むらだけでなく背の高い樹木(カワヤナギやオニグルミという種類だったらしい)が何本もあった。芽吹き始めたその木々の根元を本流から枝分かれした細いせせらぎが湾曲しながら潤していく様は、まさに「春の小川」の風景だった(去年のいまごろ書いた「写真のないブログ」)。心が癒される場所だった。

【在りし日の夏の川辺林】

無残にも切り株だけが残った河原を目にした朝、私は辺りも憚らず「あ~」と大声を出した。もうキジが姿を隠せる茂みがない。ここはキジだけでなくいろんな鳥の住処だったのに、そういえば最近はカモもシギも、ムクドリさえ姿を見ない気がする。春の初めには聞こえていたホーホケキョも消えた。夏にカッコーは帰ってくるかしら?一昨日あたりは雨が近かったせいかツバメが縦横に飛んでいたけれど、他の鳥はどこへ行った?

きっと治水のために必要だったんだよね。少しずつ緑が戻り、いつかは鳥たちも戻ってくるよね。急に殺風景になった散歩コースを歩きながら、私はそう祈るしかないのであった。

【iphoneカメラなポートレート機能で不思議な写真がとれました】

習い事でも始めるならば

パスタ鍋の底に、ついに穴が開いた。金属にも自然に穴って開くのね。それほど酷使した記憶はないんだけどね。これを新調するついでに、ダイヤモンドコーティングとやらが跡形もなく消えて真っ黒になったフライパンも新品にお取替え。これで気分が上がって少しは手の込んだ料理でもするようになるだろうか、ワタシ?

春、新しいことを始めるには気分的にピッタリの季節である。ボケ防止の意味でも習い事は良いはずだ。この機会に料理教室でも!とは、しかし、どうしてもならないんだなーこれが。料理は嫌いなんだもん。

じゃ、どんなことなら五十六の手習いをする気になるだろう。

実は昨年の今ごろ、歌が歌える人になりたいと思ってボーカル教室に体験に行ったのだが、ほどなくそこはコロナで閉じてしまった。夏ごろには絵が描ける人になりたいと思って絵画教室も覗きにいったが、午前のクラスしかなく、10時スタートに毎回遅刻しそうな懸念があって踏み切れなかった(夜型生活の矯正はとうに諦めている)。

秋には英会話を本気でブラッシュアップと思い、これも近場の教室で体験してみたがピンとこなかったし、そういえば太極拳を習いたいと思って調べたけど、やっぱり適当なのが見つからなかったんだ。そもそも東京と比べてしまうと習い事をしようと思ったときのチョイスは格段に少ない。

で、いま考えているのは「化粧」の技術習得である。この歳になるまで基本ノーメークで通してきたが(かろうじて眉毛だけは描く)、別にそこに哲学があるわけではない。9割怠慢、1割節約というところだ。いままで肌のトラブルが少なかったのも幸運だったと思うが、さすがにここ数年、目尻のシワはともかく「シミ」が気になるようになった。若い頃さんざん積極的に日焼けした世代なので、これはもう自業自得としか言えない。

折しも、Facebookでなぜかメークアップのプロセス動画が山のように流れてくる。へぇ・・・「化けてめかす」とはよく言ったものだ・・・と何回も画面に釘付けになるうち、この「シミを隠して化ける技」を私も習得したいという気になってきた。むかし、婦人雑誌で「コンシーラー」という道具を見たことがあるが、それがconceal(隠す)という言葉から来ているのだと理解したのは割と最近である。

とはいえ、いきなりコンシーラーだけ買ってもきっとダメなのだろう。最低限ほかに何が必要なのか、ドラッグストアの売り場で一人思案していても埒が明かないので、ちゃんと指南を請おうと考えている次第。

もっとも、人と会うのもオンラインが増えて、画面越しだとシワもシミもそれほど目立たないものだなと、前回の記事に自分のおかしな顔のスクショをアップしてみて思ったのだが、なんでもオンラインが永遠に続くわけではない。リアルでの対面に戻ったときちょっと化けられるよう、がんばってみようかしらん。

・・・それとも私はFacebookの動画表示アルゴリズムにまんまと誘導されただけなのか??

自分の顔、好きですか?

インタビュー取材をするときは、念のためレコーダーで録音する。もちろんいちいちテープ起こしするわけではない。あらかた書きあげてから細部を確認するために録音を聞くのだが、これが最近オンライン取材が増え、録音を聞く代わりに録画を見ることが増えた。

ご存知の通りzoomは音を出した人をそのつど大映しにしてくれる。私は、ひとこと質問したら後は黙って聞いていればいいものを頻繁に相槌を打ってしまうので、そのたびに画面が私に切り替わる。で、結構な時間、私は自分の顔を眺めることになる。

その顔、いつも鏡で見るのとは左右が違う。完全な左右シメトリーの顔を持つ人などいないだろうが、それにしてもこれほどアンバランスになるものかと画面に見入ることしばし。気に入らない右半分を少しでも相手から遠ざけようとするためか、常に首が傾いでいる。そして口まわりの肉がこれほどたるんでいるとは・・・。

癖も明らかだ。自分の早口やしゃべり方の癖は分かっていたが、身振りの癖は動画で初めて知った。ペンを持った右手の親指と人差し指で口の左右を押し上げているのは、ほうれい線を伸ばそうという完全に無意識の仕草である。

そう、オンライン取材でも私はメモを取るにのにペンを使う。いまどきは対面取材でもその場でカタカタとノートパソコンに入力する人もいるらしいが、私はやっぱり相手の話を聞いているときは目を見て聞きたいし、聞きながら次の質問を全力で考えようとするとどうしても入力と同時にはできない。これはオンラインでも同じことだ(目線は微妙に合わないけど)。

もっとも私はメモとりが下手。それ以前に手書きの文字が汚すぎて時間が経つと自分でも読めないため、記憶が新鮮なうちにとりあえず全部ワード上に吐き出しておかなければならない。そこに事前取材・周辺取材で収集した情報を加えて文章にしていくのだが、最後はやはり録画のお世話になる。次回のzoom取材こそ、相槌を控えめにし、首を真っ直ぐにして、口元に手をやらないようにしなければ!

って、画面の中の私の顔をそんなにまじまじ見ている人は当の本人以外に誰もいないだろうけどね(笑)。単なる自意識過剰で失礼しましたm(__)m

もしもコロナにかかったら

お彼岸で川崎の実家に帰省。ひと月ぶりの東北新幹線は明らかに乗客数が増えていた。東京駅の人混みも、コロナ前ほどではないがかなり戻ってきている印象だった。なぜか東京都新宿区にある菩提寺への墓参りには、母と弟と3人、弟の運転する車で出かけたが、ふだんの週末ならさほど混まないはずの首都高が大渋滞。その帰り、甥っ子たちに進学祝いを渡すべく弟の家の近くのファミレスで集合したが、そこも順番待ちの大盛況であった。

これでもし私がコロナに感染したら、どれほど非難を浴び、どれほど肩身の狭い思いをし、周りにどれほど謝罪しないといけないだろうか・・・などと思いながら翌日東京駅へ向かう京浜東北線に揺られていた。

▲季節外れですいません。これは昨年11月、父の四十九日のときに菩提寺に咲いていたバラ。

マスク手洗い、家族以外との会食回避などの予防を心掛けたとしても、人との接触を100%断たない限り感染する可能性はあり、それはもう不可抗力である。不可抗力なら責任の取りようがない。取りようがないなら謝りようがない。しかし理屈はそうでも、もし自分が感染したら私はやはり周囲に対して平身低頭「ご心配ご迷惑をかけた」といって詫びるであろう。そして私が所属する集団(たとえばバイト先)が今度は、世間に対して「ご心配ご迷惑をかけた」といって謝罪しなければならないだろう。

この「世間」という言葉が英訳しにくいのは良く知られた話だと思うが(society=社会とはニュアンスが違う)、日本では自分自身に非(責任)はなくても、「世間をお騒がせした」(=秩序を乱した)ことに対して謝罪するのはごく当然と考えられている。だから、成人した子の不始末を両親が謝罪する。社員が職務とは無関係のプライベートで起こした不始末を社長が謝罪する。

思い起こせば10年くらい前、私が外国大学の広報をしていたとき、日本の有名私大の学生が自宅で大麻を栽培していたというので逮捕され、その学長が記者会見する事態となった。このとき私は当然「もしも我が校だったら」と脳内シミュレーションしたわけだが、学長が出てきて「世間をお騒がせしてすみません」ということにはどうしても違和感を持った。学生一人ひとりの私生活まで大学が責任を持てるわけない。でも世間(マスコミ)は暗にそれを求めたし、当時私が参照していた企業向け広報マニュアルでもたしかに、なにか事件が発覚した時はその真相がわかる前でも「まずはとにかく謝罪すべし」と書いてあった。それを要求するのは法律や客観的ロジックとは別次元の何かだ。

▲図書館で手に取った本。中には「うーん、それはどうかな?」と思える記述もあったが、総じて私が漠然と感じていた違和感が明快に言語化されていた。「責任」の捉え方についての歴史的変遷の考察もたいへん興味深かった。一読をオススメ。

「コロナ差別」が問題となり日本の同調圧力の異常さを論じる言説も見られるけれど、「迷惑をかけた=集団の秩序を乱した」場合に受けるであろう集団リンチへの恐怖は、私自身を含めて日本人の遺伝子レベルに埋め込まれているように感じる。あえて言えば同調圧力からの自由度には若干の男女差があって、女性(とか外国人)の方が比較的自由な分、男性から見れば「わきまえない」とか「忖度しない」とかいうことになるのかもしれない。

・・・などと考えながら私はやっぱり、川崎駅の混雑したエスカレーターで「右側を一列開ける」(東日本なので)という理不尽な同調圧力に負けたのであった。

宅配ボックスのドアが開かないとき

通販はなるべく利用しない主義だ。幸い私はまだ自分の脚で買い物に行けるし、その時間も惜しいほどに忙しい訳でもない。必要なものを必要なときに買いに行き、そこで売っているものの範囲で賄うようにしている。欲しいものが店に無ければ無しで我慢するか、別のもので良しとするか、取り寄せてもらって後日再訪するか。いずれにしても耐えられないほどのことはない。時間に余裕があって健康体なのに、何でもかんでもネットでポチして翌日ドアまで届けてもらえるのが当たり前になったら最後、私は「人でなし」への道まっしぐらだと思っている(もちろん、宅配ドライバー不足問題とか環境問題とかもちょっとは考えている)。

▲お酒もちゃんと酒屋へ買いに行きます。この写真は温泉宿の夕飯ですが。

とはいえ、ときどきは宅配便を受け取らねばならないことがある。香典返しとか株主優待品とか、最近ではクラウドファンディングやふるさと納税の返礼品など。だいたいの時期は予想できても自分で注文したわけでないから、配達されるまで発送されたことが分からない。で、たいていマンションの宅配ボックスのお世話になるのだが、先月は不在連絡票に記された4桁の暗唱番号をセットしてもボックスのドアが開かない、ということがあった。

こういう事態は初めてだったので少々焦る。不在票にあるドライバーの番号に電話してはみたものの、当然解決にはならない。1の位からひとつずつ番号をずらしてやってみたが、どうもダメである。はて?と思いネットで解決法を検索すると、今の時代これは大して珍しい出来事ではないらしい。ハテナ系のサイトで見つけた回答には、私がすでに試した方法以外に、デフォルトの「0000」で半数は開くと書いてあった。果たして、私の荷物も0000で無事ゲット。こういうときはネットの力に感謝である。

そして今日、またもや同じ事態が発生し、同じように0000で解決した。このエリアを担当する、同じおっちょこちょいのドライバーさんが同じ間違いを犯してしまったのか、あるいはどのドライバーも時間に追われて番号をまともにセットする余裕すらないのか。今どきはLINEで受け取り日時を変更したり、コンビニで受け取ったり様々なオプションがあるようだが、その設定をするのもいろいろ面倒で、なんだかなぁと思ってしまう。

▲これは昨年末に届いた佐賀県からのふるさと納税返礼品。

ついでに言えば、世の中キャッシュレスだというので、私もこのところプリペイドカードにまとめてチャージしておき、普段の買い物には極力それを使っていたのだが、それだとどうしても「今日はいくら使った」という感覚が薄れる。結果、使いすぎる。日銭稼ぎのパート&フリーランス稼業は、極端に言えば日ごとに収支を均衡させないと、こんどは破綻への道まっしぐらだ。なので、数百円単位の少額決済を除き原則として現金払いに戻すことにした。(まぁ使いすぎるのは本人の心がけの問題でもあるが)

便利な世の中になって有難いことではあるが、その裏で生身の人間が付いていけずに徐々に歪んでいくものがある。みんな大なり小なり気づいているとは思うんだけどね。