何を学ぶか

生まれて初めて災害ボランティアというものを体験した。これまで身近な場所で募集されたことがなく(たぶん)参加の機会がなかったというのは、思えばラッキーなことである。

各地に被害をもたらした台風19号、福島市内でも私の家からさほど離れていないエリアがかなりの深さで浸水した。テレビでは見ていたが、初めて現場に入って人の身長よりも高いところに水の跡が付いているのを見ると、本当に恐ろしいと感じる。この地区では津波のように家ごと流される被害はなかったのが不幸中の幸いで、水が引いた後の家々は一見ふつうに建っているのだが、中はものすごいことになっていた。

▲左側の建物のさらに左手が川。この狭い道路は水没し、かさ上げしてある家も1階の半分くらいまで浸水した。

この日の活動は主に、1階の鴨居付近まで水につかったお宅の片付けを2軒。めちゃくちゃになった部屋の中にあるものをとりあえず全て外に運び出すのだが、その過程で図らずも、そのお宅の生活の全てが見えてしまう。

家具や家電、食器や衣類はもちろん、泥まみれの中から出てくる細々したものたち。明らかにお仏壇の中にあったものや、きっと大切であろう写真類などはすぐに見分けて家主に渡せるも、他のものは基本的には全部まとめてビニール袋に突っ込んでいくしかない。その中にだって持ち主の思い出が詰まった品々はたくさんあるのだろうが・・・

▲大森川。増水した阿武隈川に合流できず、土手が崩落したという。

そして、泥水を含んだ畳がこれほど重いとは。古いお家なだけに、最近よくあるナンチャッテ畳ではない。本物の井草の立派な江戸間サイズだ。一枚運び出すのに若い男性でも4人がかりである。絨毯もしかり。個人的には最近やっと和室の良さが分かってきたところだったが、こうなるといちばん楽なのはやはりフローリングですね、としか言えない。

この日のボランティアは、福島大学の学生グループをはじめ総勢30人あまり。平日にもかかわらず若い男性も少なからずいたおかげで、五十路のおばさんは比較的軽いものの片付け担当で済んだ(それでもかなり腰にきて翌日は使い物にならなかった・・・情けない)。が、これが高齢者ばかりの集落で若い男手が来なかったら、本当にもうお手上げであろう。

他にも主要国道が土砂崩れや路肩崩落で通行止め、ローカル鉄道は運休。私にとっては、自分の生活圏内で経験する初めての大規模自然災害となった。それでも私個人の生活に全く支障を来していないのは、幸運以外の何物でもない。

▲この規模の浸水ではおそらくほぼ役に立たなかった土囊。

福島県内の被災地は、もちろん福島市だけでなく各地で似たような状況だ。浜通りの一部ではいまだに断水も続いており、一日も早い復旧を願うばかりである。

農産物の被害も恐ろしことになっているはずだ。一年間丹精込めた作物が一晩でダメになる切なさ。しかも、台風は地震と違って来るのが分かっていながらほぼ為す術がない。素人でも想像するだけで心が潰れる。

この規模の台風は今後、増えこそすれ減ることはないのだろう。せめて日本付近を通らないよう祈るしかない。

Life goes on

思えば人類史は自然災害との戦いであった。現代人は忘れがちであるけれども。

福島県内も各所で河川の氾濫や堤防の決壊があったが、幸い私の住む周辺は無傷で済んだ。被害にあった地区の一日も早い復旧を祈るばかりである。

上の写真は、このブログでもたびたび登場する私の散歩コース、荒川土手。台風一過の今日16時半ごろに撮影したもので、もうだいぶ水は引いていた。広い土手のグラウンドは完全に水没したらしく、サッカーのゴールポストの位置が変わっている。手前にあったはずのもう片方のゴールポストは姿が見えなくなっていた。

福島市内を流れるこの荒川はその名の通り昔から洪水が多い暴れ川で、1986年の8.5水害では死者の出る被害があったそうである。8.5水害とは関東甲信越も含めてかなり広範囲に被害が出た大災害だったらしいが、当時東京の大学生だった私はまったく記憶がない。いかに世の中に無頓着だったか。まったく恥ずかしいくらいボーッと生きていたものだ。

今回の台風で、福島市が誇る観光道路の磐梯吾妻スカイラインもまた当分の間通行止め。紅葉のピークシーズンを前に関係者はさぞや落胆しているだろうが、それもこれも天のなせる技だから仕方ない。

一方で今日、福島市街にある福島稲荷神社の例大祭は予定通り行われ、出店が並び、山車が練り歩いているらしい。もちろん自粛すべきというわけではないが、テレビでもSNSでも被害のニュースばかりだからなんだかこのギャップは不思議な感じだ。

▲4日前に行った二本松菊人形展にはこんな一角も。12日は休園したが13日から再開とのこと▲

地震、津波と比べて河川の氾濫は、治水技術の向上であたかも克服できたかのように錯覚してはいなかったか。人類、奢ってはならないと改めて思う。

どんな状況でもみな心穏やかに過ごせますように。

写真では伝わらないので来てください

浄土平。なんとふさわしいネーミングだろう。何度訪れても飽きない。個人的にベストシーズンは9月中~下旬、リンドウやススキの花が咲くころだが、10月に入った今日も十分美しかった。

この湿原の植物たちといい、 周りの山々の木々といい、 それらの織りなす色のグラデーションはとうてい言葉では表現できない。いくらiPhoneのカメラが高性能でも、その美しさを画像で伝えることは不可能だ。(と言いながら習性でついカシャカシャやってしまうが…)

浄土平に来たらたいてい、道路をはさんで向かいの吾妻小富士に登る。登るといっても整備された階段が数百段、火口を一周して降りてきて1時間かからないのだが、ちょっと運動した気にはなる。なによりこの眺め。

▲吾妻小富士から見た吾妻山(一切経山)。噴煙が前より多い。活きてる山▲

ここが自宅から車で1時間というのが、私が福島を離れられない理由のひとつと思う(笑)

▲浄土平をパノラマで撮ってみたらこうなった▲

去年の今ごろ、老親がなんとか二人で新幹線に乗り、私を訪ねて福島にやってきた。高湯温泉に泊まり、翌日はぜひここに連れてきたいと思ったのだが、その少し前から吾妻山の噴火警戒レベルが引き上げられ、紅葉シーズンを前に観光道路の磐梯吾妻スカイラインが通行止めに。浄土平も立ち入り禁止ゾーンに入ってしまった。浄土を見せてやれなかったのが心残りで今年はリベンジと思ったが、残念ながら彼らはもう電車に乗って遠出するような体力も気力もなくなってきたようである。

今日、一人でスカイラインを走りながら「また来年」という言葉が浮かんだが、飲み込んだ。

たしかに季節はめぐる。産直に行けば「ああ、またこの季節が来たか」と思わせてくれる産物でいっぱいだ。私はあと何回サクランボを食べ、ブドウを食べ、イチジクを食べられるんだろう。

今日が最後でも悔いないように生きないとあかんね。こんな極楽浄土に行けますように…

▲そして人はなぜか石を積む(笑)▲

なぜ福島第一は「福島」第一なのか

先月から福島市の観光案内所でパートをしているのだが、先日、外国人旅行者から言われたこと。

「なぜ、福島第一原発は『福島』第一原発というのだ?」

なぜって、そりゃ福島県にあるからですよ。

と言ってみてからハタと気づいた。他の原発を考えてみると、泊原発(北海道)、女川原発(宮城県)、柏崎刈羽原発(新潟県)、浜岡原発(静岡県)、川内原発(鹿児島県)、福井県なんて4つもあるが、第一、第二、第三、第四でなく、敦賀、美浜、大飯、高浜とみんな立地市町村の固有名詞だ。

「福島」と同じく都道府県名を冠しているのは、松江市にある「島根原発」だけのようである。

その旅行者が言いたかったのは、福島という名前が付いていたがために、あの事故の記憶と「風評」は永遠に福島県全体と結びつけられちゃうぜ、ということらしい。

なるほど、そうかもしれない。もしも第一原発が柏崎刈羽式に「双葉大熊原発」、第二が「楢葉富岡原発」とか命名されていたら、カタカナの「フクシマ」は生まれていなかったんだろうか。

なぜそう命名されなかったのか、ちょっとググったくらいでは出てこなかったので、だれか知ってる人がいたら教えてほしい。

なんにしても、新しいことを始めると小さくても新しい発見があるのがよい。ボケ防止には必須である。

(写真は2017年1月に現地で撮った看板)

夏の夜

ラジオから流れるプロ野球中継

煙草の煙、車の匂い

工場萌えなんて言葉ができるより30年以上も前の京浜工業地帯の夜景

ブルドッグが涎を垂らすビタワンのネオンサイン

もうすぐお家

もうすぐお家

おばあちゃんちの帰り、お墓まいりの帰り

あるいは若い家族旅行の帰り

心地良く疲れた私たちを乗せて車はいつもの首都高を走る

途中で眠くなる・・・と、「ほら、ビタワンだよ」

もうすぐお家

もうすぐお家

このシーンは二度と再現されない、だって父はもうハンドルを握らないしビタワンはもう無いもん

でも私の記憶は夏の夜のプロ野球中継を聞きながら工場萌えの首都高湾岸線を走る

もうすぐお家

もうすぐお家

いまでもお家

いつまでもお家

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(たまにこういう詩(のようなもの)も書いてます)