産直生活とフードロス

週末に買い出しにいく産直では、カット野菜なんてものはない。大根にしろ白菜にしろキャベツにしろ、ドーンとまるごと1個120円とかで感動するのだが、ドーンとまるごと1個を消費しなければならない。カボチャなど、東京では1/4にカットされたのしか見たことがなかったが、こちらはホールが基本である。もっともいろんなサイズがあって、一番小さいのは直径10センチ以下のもあるが、それでも結構食べでがある。

先週末は子供の頭くらいあるカリフラワーを買ってしまったので、今週はカリフラワーづくし。自炊すると一定期間同じものを食べ続けねばならないのは単身者の宿命だが、産直で仕入れるとそのスケールが一段アップする感じね。もちろんスーパーに行けば小分けにした野菜を買えるのだが、なんとなく地方暮らしの良さ=「産直のとれたて野菜」みたいな公式が頭のどこかにあって、こうなる。DSC_1520

もうひとつ、食べ物を捨てることにものすごく罪悪感を感じるタイプなので、1週間よく考えて、金曜日までに生鮮食材はなるべくきれいに使い切るようにしている。土曜日に野菜箱も冷蔵庫もほぼカラにできると、これが結構快感なのだ。そしてこれも産直生活だとハードルあがるんで、そのぶん快感も倍増するんである。(写真はこちらにきて初めて知った三五八(さごはち:塩・麹・米がこの割合でまざったもの)の漬け床。夏ならキュウリやナス、今からは根菜類を漬けて冷蔵しとけば少しは長く食べられる。まろやかな塩味が好き。)

ついでにフードロス(食料廃棄)の問題を少し。これは食い意地の張った私の一大テーマである。関心を持つきっかけとなったレポートを出版元の許可を得て訳したものを紹介させていただく。

Global Food- Waste Not, Want Not 世界の食料事情―「もったいない」の実践を

世界では40億トンの食料が生産されてるが、その3~5割は人の口に入る前に、喪失または廃棄されている、という話だ。もったいない、世界にはまだ飢えて死んでいる人がいるのにけしからん、というだけではない。その食料を生産して市場に届けるまでに使われた土地、水、そして電気、燃料、それらエネルギーを生産するために使われた資源、ぜんぶドブに捨ててるということなのだ。原発の是非を考えることはエネルギーミックスを考えること。つまり我々全部でどんだけエネルギー必要なのよ?という問題を議論する際には、ぜひこのドブに捨てているエネルギーの存在を考えてほしいものだ。

おいしいトムカーガイが食べたい…

「地方」と一口にいっても、そのイナカ度合はさまざまである。福島県も広いが、新幹線が通るいわゆる中通り地方は、どこも「ちょいイナカ」くらいだろうか。成城石井や明治屋はないが、ふつうのスーパーはふつうにあるので、生活に不便ということはまったくない。

が、レストランシーンとなるとやはり首都圏との差は歴然としている。人口が少ないところでは、どうしてもニッチは狙えない。基本的に老若男女万人に受け入れられる無難な(=食べなれた)ものしか出せないのだろう。10580242_10206246065859786_3748270553560002123_n

それゆえか、こちらには「ちゃんとした」エスニック料理店がないんである。いや、インドもタイも数軒ずつあることはあるのだが、東京の行きつけで食べるのとはやっぱり違うんだなあ。定期的にタイ、ベトナム、インドの料理を食べないと落ちつかない自分のような人間にとって、これだけは少々つらい。昨日もいろんな知り合い5人誘って久々にタイレストランに行ったのであるが、料理の味はどうしても少々残念であった。そういう意味では、東京人はまったくスポイルされている。(写真はちょっとだけ残念なインドの例)

しかし、いつまでも嘆いてるだけでは仕方ない。本格的なタイやインドを食べられる店がないなら、そういう料理を自分で作ればいいのだ!…と頭では当然わかっている。が、自分はやはり本質的に料理が好きではないのだと、つくづく思う。この、「女なのに料理が下手あるいは嫌い」というのは、イナカの価値観ではおそらく受け入れがたい態度なんだろうと思う。というか年配者(っていわゆる昔の人?)の価値観かな。そのうち自分が年寄りになるころには、包丁の下手なばあちゃん、裁縫できないばあちゃん、でも普通に許されるイナカ社会であってほしい。

それでも人はコメをつくる

キーウィをたくさんいただいたので、ジャムにした。こちらでは食べ物、とくに野菜をよくいただく。福島に限らず、少しイナカにいくと、兼業農家つまり自家消費分の米や野菜くらい自分で作っているサラリーマン家庭はめずらしくない。役場の職員でも、(原発事故で避難するまで)米と野菜は買ったことがなかった、という人が結構いる。親が田んぼをやって、サラリーマンの息子は田植えと稲刈りのときだけ仕事休んで手伝うみたいな、二世代・三世代同居だからこそできる「ぜいたく」だ。

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単身で兼業農業はなかなか厳しいが、小さな畑くらいできれば、食糧危機の心配も減る。日本の食料自給率が低いと騒いでいるが、野菜に限れば自給率は8割だというから、なんちゃってベジタリアンの自分は自給率5割を超えてると思う(ほんとの自給率アップには自分で作らなきゃだが)。問題は粉モノだ。日本人、ご飯つぶ食べなくなってパン食が増えてるのに、どうしてもっと小麦作らないんだろう?これだけ減反してもなお、日本のイナカの風景を占領しているのは、やっぱり圧倒的に水田なのだ。四国のイナカに行ったときも、急峻な斜面にへばりつくように、幅わずか2メートルくらいの棚田がつくられているを見て、東京から視察にいった我々は、「それでも人はコメを作るんだ」と感心したのを覚えている。補助金とかいろんな理由があるのだろうけど。(写真は仕事場の近所の田んぼ)

天然の栗は小さいのだ

昨夜は寒かった。6度だったそうだ。が、昼間は暖かかったので、いつもの道を散歩中、ハッチしたての栗をたくさん発見。人生初の「栗拾い」というものをする。さっそくゆで方を調べた。昨夜から半日浸水してクロッククッカーで一晩ゆで、そのまま夕方まで冷まして、とけっこう時間がかかる。さて今日の夕飯の楽しみに、と皮をむこうとしてみたが… 天然の栗というのは小さい。大きいのでも直径2cmあるかないか。包丁で半分に切って皮をむくといっても、小さすぎてむけない。なんとかティースプーンですくって食べるとたしかに栗の味はする。が、疲れる。作業量のわりに可食部が少なすぎ。結局半分食べて残りはあきらめた。栗に限らないが、売ってる果実は往々にして「不自然」なサイズなのだと改めて思う。

ちなみに、この辺の栗の中には放射性物質の基準値(100Bq/kg)超えが出ているみたいだ。昨年も道端で拾った柿で干し柿づくりに挑戦するといったら、「干すと放射性物質が凝縮されるんですよ」と忠告された。でも、野生の柿でも栗でも食べる重量といったらわずかだ(1キロも食べたら別の理由で身体を壊す)。私にとっては、初めてのことへの好奇心のほうが勝る。

目の前にあって見えてないもの

今月中旬に開催されるイベントのリレートークで、10分ほどしゃべってくれと依頼された。「新しい挑戦」というお題に少々困惑したけども、この手の依頼は超久しぶりなので、頭の整理のためにもありがたく引き受けることにした。で、今日はその資料づくりを少々。たかが10分、というのがかえって難しい。背景・現状をある程度説明したうえで、誤解を招かないギリギリまで端折らないといけない。おのずとエッセンスが蒸留されるはずなのだが…。うーん私ってやっぱり頭悪いかな、と思うときがあるが、今日はそんな日。

職場の周囲、歩いて行けるところに商店はないので、たいてい弁当を作って持参する。DSC_0849東京時代の自分には考えられなかったことだが、必要は発明の母とはよく言ったものだ(少し違うが)。でもたまには、職場に売りに来る総菜屋さんも利用する。特に水・金担当の惣菜屋は、安くて量が多くておいしいので、つい夕飯のおかずも、と買いすぎてしまう。今夜は揚げ物オンパレードになっちゃった。しかもビール付き。「個人の究極のリスクマネジメントは、食べなくても大丈夫な身体を作る(そのための精神を鍛える)こと」なんて、我ながらよく言うよ。(写真はある日のお弁当)

夕飯後、引き続きテレビの「地上デジタルが映らない」件に挑む。ネットは便利だ。このキーワードで検索したら、ちゃんと直し方が出てきた。県をまたいで引っ越ししたら、チャネル割り当てしなおさなきゃいけない、ということを学ぶ。リモコンのメニューボタンなんてまったく存在を認識してなかったよ。「目の前にあるのに見えていないもの」の一例である。