さすてなぶる

先週いきなり気温が下がって慌てて長袖を出した、と思ったら、昨日今日の福島市内の最高気温はまた30度近かった。今年の秋は遅いらしい。

△この夏のヘビロテだったベトナム風豆乳そうめん。福島は野菜が豊富でおいしいよ。

ところで、今日27日までの10日間は「サステナウィーク」っていうイベント期間だったんですって。主催の農水省さん、これって和製英語だよね??

サステナブルねえ。持続可能性ねえ。これを聞くたび私は思う。「持続する」という自動詞の主語(あるいは持続させるという他動詞の目的語)はいったい何なのだ?私たちはいったい何をsustainさせたいのだろう?地球環境?生態系?現代文明?人類?「ぜんぶ」というのが答えかもしれないけど、意外にみんなちゃんと考えてなくないか?

だって、人類をせめて曽孫の代くらいまで持続させるためには、「うまい速い安い楽しい清潔快適」の現代文明の少なくとも一部は、持続させることはできないんじゃないでしょか。どれだけ技術が進んでも、人間が生物である限りどっちも持続は無理だと思う。逆に言えば、いまの現代文明の水準のまま人類が持続できる可能性といったら、人類の全体数が劇的に減少すること、しか私には思いつかない。

もっとも、究極を言えばこの世には持続可能なものなんてない。諸行無常。万物流転。どんだけがんばっても地球の余命は太陽の余命50億年より大幅に短い。地球が生物のハビタブルゾーンにある期間はそれより大幅に短い。太陽系の破綻は、人類がいま二酸化炭素をどれだけ出そうが出すまいがそれとは無関係に起こる。その前に小惑星がぶつかってきちゃうかもしれないしね(それは今日、NASA探査機が世界初の衝突回避実験をやってみたらしいので大丈夫かしら)。

だからいま持続可能性云々と言ってるのは、せいぜいこの先百年くらいのスパンで人類が自分で自分の首を絞めて自滅しないためにはどうしたらよかんべ、という話。

△先々週、開け放った縁側喫茶が気持ちよかった。このおしゃれなスイーツの名前は忘れた。

1950~70年代に書かれた星新一のショートショートには、地球上の人口が爆発的に増えた未来を舞台にしたものが結構ある。人類が文明よりもまずは持続を目指すのなら、参考になるんじゃないかと思う。最近またリバイバルしてるらしいのには意味があるのかもね。

そうはいっても自分の残りの人生わずか数十年をどうやって「なるべく苦痛少なく(必ずしも苦労少なく、ではない)」生きるか、そしてその後どうやって死ぬかは、相変わらず個人にとっては大問題だ。望遠鏡も顕微鏡も両方つかいこなしてできるだけ平静に生きたいものだと思うが、はて・・・

メメント・モリ(2)

ツバメの子育ての時期である。ツバメは天敵から身を守るために人間の力を借りると、テレビで見た。だから人家の軒先に巣をつくるのだ。この辺ではコンビニの自動ドアの上にまで作ってしまうので、入口に大きな扇風機を置いて上向きに回している店もある。

今年は、住んでいるマンションのエントランスの軒下に初めてツバメが巣をつくった。ここの住人も管理会社も性根がやさしいので、棒で叩き落としたりしない。代わりに「頭上ご注意ください」という貼り紙が出た。フンが落ちるタイルの上にはビニールを張って保護してある。

先週の土曜日の午後。外出から戻ると、エントランスのタイルのうえに小さな灰色の塊が3つ落ちていた。巣から落ちたヒナだった。まだ目は開かず羽も生えかけのヒナ。即死だったのだろう、すでにアリがたかり始めていた。共用部の清掃をしてくれる管理員はもう退勤したあとで、翌日は日曜日。しかたない、自分の部屋から箒と塵取りを持ってきて拾い集め、穴を掘る道具がなかったから植え込みの土の上にそのまま置いた。

まもなく親鳥が戻ってきたが、子どもの数が減ったことを訝しがる様子はない。兄弟たちも、まるで何事もなかったかのように口を大きく開けて餌をねだっていた。

それからエントランスを通るたびに植え込みの中をちらりと覗いたが、死んだヒナたちの身体は順調に虫たちと微生物たちに分解され、1週間たった今はほとんど跡形もない。あぁ、生物の身体はこういうふうに分解され自然に戻っていくのだなと思った。今の日本では土葬や鳥葬はダメだけれども、私もいずれ骨になった後はやはり土か海にそのまま撒いてもらい、生きものの循環の中に戻っていきたい。

いま、巣の中では残った3羽がもうだいぶ大きくなり、小さな巣にぎゅうぎゅうに並んで、親の帰りを待っている。6羽のままだったらとても入りきらなかっただろう。巣立ちはいつか。

(写真は今回フリー素材です)

メント・モリ(1)

農業とともに人類の不幸は始まりき(その3)

このタイトル、しつこいですか?すいません。でも今年の農家バイト体験は、私にとってそれだけインパクトがあったということなんですわ。日記ブログなのでお許しを。

「キュウリの収穫と箱詰め」という求人広告に応募したはずの農家バイトだが、キュウリの時期が終わっても、次は稲刈り、それからネギの収穫と出荷、その合間にキュウリ畑の片付け、と続いている。その話は(その2)に書いたとおりで、業務内容は募集広告からけっこう乖離してきているが、いろんな作物の栽培現場を見ることができて大変いい勉強になっている。

そして今週は、加工用の高菜の収穫・出荷というものを経験した。葉ものは初めてだ。これはあの、ミレーの「落ち穂拾い」の姿勢が永遠に続く、まことに腰にこたえる作業である。週の中盤は中通り地方でも氷点下になり、朝の高菜畑は一面の霜だった。前日に根っこを落としておいた高菜は地面の上で真っ白に凍みている。これをカゴに詰めていくのだが、まあ指先の冷えること。焚火をおこしてもらってなんとかなったが、一時は手がちぎれるかと思った。(写真とってる余裕がなかったので、下の写真はウィキから借用)

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収穫した高菜を入れたカゴは、ひとつ10キロ以上ある。それを2つずつ一輪車に載せ、畝の上を横切って運ぶのも、かなり体幹が鍛えられる作業であった。最終的には400に近いカゴ数になったはずから、畑を何度往復したことか(もちろん一人でやったわけではないが)。この農家バイト、10月末から勤務自体は週4回から2回に減らしてもらい、代わりにせっかく減った体重がリバウンドしつつあったが、この高菜で少しはまたシェイプアップしたかもれない。w

それにしても、夏は炎天下、冬は氷点下の屋外で、文字通り日の出から日没までのこういう身体的な重労働が、エアコンの効いた室内でパソコンをカタカタやっている9時5時の仕事よりも往々にして給料が低いというのは、なんだか腑に落ちない。この農家さんの時給が安いと文句を言っているわけではない。現代社会において、農業というものがそういう地位に甘んじなければならないことに、不条理を感じるのだ。

しかしながら、この不条理が何に発祥するかというと、やはり、1万年前の農業の誕生そのものなんである。食料が狩猟採集でなく「生産」されるようになると、人は定住し、人口が増加し、都市が生まれ、仕事が分化、つまり自分の食べるものを自分で作らなくてもよい階級の人々が誕生した。食料は徴税(年貢)のちには市場取引という形で調達すればよくなったのだ。狩猟採集に比べ、植物の栽培というのが重労働なのは自明である。そんな重労働を「農民」に任せられる都市部の人々は、その時間を他の「専門的」な職能開発に充てることができた。開発には教育投資が必要なので、その職能への対価は投資回収分を含んでどうしても割高になる。

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というのは、「サピエンス全史」に多分に感化された私が勝手に考えた理屈であり、実際には農業にも当然専門性が要求されるのだが(特に現代農業には肥料や農薬、機材の知識は必須)、世間一般には、一度になるべく多くのネギを折らずに引き抜く技術や、空を見て3時間後の天候が予測できる能力よりも、エクセルやパワポを使いこなすスキルのほうに高い値段が付きやすいのは事実だろう。

と考えると、その点「兼業農家」というのは折衷案的に優れた選択肢なんだな。もっとも兼業の度合は様々だが、サラリーマンやりつつ自家消費分だけのコメや野菜を作っている世帯も含めれば(これは農水省統計の「兼業農家」定義には当てはまらないらしいが)、実は兼業農家は大都市圏以外の日本国民のわりとデフォルトな生活形態なんじゃないかと思う。昨今は、都市住民が志向するライフスタイルとして半農半Xというシャレた言い方もするようだが、人間は自然にそういうバランスをとるように設計されてるのかもしれない。

さて、私もいつから半農生活に入れるでしょうかねぇ… まずはベランダ菜園からかしらん。


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農業とともに人類の不幸は始まりき(その2)

急に冷えてきた。昨日は東京もずいぶん寒かったようだが、福島も11月下旬なみの気温だった。露地ものの夏野菜はそろそろおしまいだ。

8月からアルバイトしているキュウリ農家は露地オンリーなので、今年の出荷は今週でおしまい。昔ならキュウリなんてもっと早く枯れているのだろうが、肥料などが発達した現代では、夏秋キュウリという種類ならこの時期までなんとか実をならせることができる。でも畑に行くと、もうキュウリは最後の力を振り絞っているのがわかるのだ。思わず、よくがんばったね、などと声をかけてしまう。

この間に体験した作業としては、収穫、箱詰めはもちろん、蔓留め、芯止め、葉っぱ切り。そして、枯れて収穫が終了した春キュウリの畑の後片付けだ。「後片付け」と一言でいうが、まずは枯れた蔓をネットからはがし、ワイヤーを巻取り、ネットを巻取り、支柱を抜いて1か所に集め、土に敷いてあるマルチというビニールシートをはがして巻取り、枯れた蔓を集めて燃やし… と工程はいくつもある。

農村ツアーのおまけの「野菜収穫体験」もいいが、その前後にどういう作業があるのかを知るのは本当にいい勉強になった。

DSC_2212そのバイト先はキュウリ農家だからといって他のものを何も作っていない訳ではない。実は10月初旬は稲刈りという一大イベントも経験することができた。こちらも、セレモニー的な「稲刈り体験」はやったことがあったが、その稲刈りをするための準備、刈ったあとに出荷するまでのプロセス等々、私にとってはすべて初めての学びである。

野菜や果物は、基本的にはとったものをそのまま食べられるわけで、選別して箱に入れれば出荷できる。が、穀物の場合、食べられる状態にするまでが大変だ。脱穀、乾燥、籾摺り、という言葉は知っていたが、そのすべてにおいてこれほど機材・機械をたくさん使うとは!コンバイン、グレインキャリー(収穫したコメを運ぶ、でっかい袋状の入れ物)、乾燥機、籾摺り機、選別・計量機。かなりの設備投資だが、いずれも他の用途には使えない専用の機材で、年にせいぜい1週間程度、この収穫の時期しか使わない。複数の農家で共有すればいいのに(流行りのシェアってやつですか)、などとつい思ってしまうけれど、それがそうもいかないのは、時期がみな重なるからだ。

これらの機材は、セットアップもかなり重労働だし、使用の前後にはすみずみまで洗浄しなければならない。機械のおかげで、人力よりも確実に作業は速く楽になったが、かわりにそのメンテナンスという仕事が増えたわけだ。メンテナンスにはエア洗浄ガンなどの機材が必要で、それを動かすコンプレッサーもメンテナンスが必要で…… となると、農家の高齢化対策のひとつとして「機械化」が挙げられるが、実際どうなのだろうと思ってしまう。もちろんコメに限った話ではないが。

もちろん、今後もおそらく永遠に機械にはできないであろう仕事もたくさんある。前述の、キュウリの収穫や蔓止めなどの作業もそうだし、今回のバイトでは他にネギ畑の除草や高菜の間引き、白菜の定植などもやったが、これらも基本は人の目と手先が必要だ。ちなみに、こうした足元の作業はまことに腰にこたえる。ミレーの「落穂ひろい」のあの姿勢。「腰が曲がる」という現象の仕組みがわかったような気がする。

落穂ひろい

そんなこんな含めて、この農家バイトは私にとって大いに興味深い経験。これこそ、福島に移住しなければできなかったことだ。また、本業で農家さんの取材をすることがときどきあるが、たった数ヶ月でもこの農業体験はかなり役に立っている。

ということで、こちらのバイト先には、キュウリ畑の片付けとネギの出荷が終わるまで、頻度を減らしつつもうしばらくお世話になることになった。晴れて年季が明けたら、腰は伸びるかもしれないが、せっかく減った体重がリバウンドしないか、それだけが懸念点である。

農業とともに人類の不幸ははじまりき


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東北新幹線よ、ありがとう

サイクリングに最適の真っ平らな福島市街地。その中にぽっこり浮かぶ島みたいな信夫山(しのぶやま)は、市民のオアシス的な存在だ。その信夫山を背に鎮座している県立図書館には、ほぼ毎週末、本を借りに行く。

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先週の日曜日は暖かかったので、運動がてら遠回りして歩いていったら、いつもと違う道から図書館の裏手に出た。すると、信夫山の斜面に向かって階段が伸びているのに気がついた。

どこに行くんだろ?ちょっとした遊歩道にでもなってるのかしら?

時間はたっぷりあるので登ってみる。

百段ほど登っただろうか。小さな見晴らし台みたいなところに出て、突き当りにいきなり、「慰霊」の文字が刻まれた碑が目に入った。ぜんぜん予期してなかったので、ちょっと面食らった。見れば日本国有鉄道と書いてある。そう、それは東北新幹線の建設中に命を落とした人々の霊を慰めるためのものだった。

帰京のたびにお世話になる東北新幹線。大宮~盛岡間の開通は国鉄民営化の5年前、1982年だったそうだ。東海道新幹線と比べても、たしかにトンネルが多い。山の中をあんなに速く走るために、まっすぐな線路を作るために、あんなにたくさんトンネルを掘ったんだ。そのおかげで、東京~仙台など余裕で日帰りできる距離に縮まった。

新幹線ができるってやっぱりすごいことなんだ。この新幹線がなかったら、東日本大震災後の復旧・復興などもっと遅れていたかもしれない。いや、確実に遅れていただろう。個人的にも一昨年、母が大病して毎週末帰京していたとき、在来線で片道4時間なんてかかっていたら私の身体がもたなかったかと思う。そもそも福島移住も考えなかったかもしれない。

その新幹線を通すために、転落や落盤で(だけに限らないだろうが)こんなにたくさんの人が犠牲になってたんだ。

慰霊碑の背後には百余名の殉職者の名前が刻まれた、別の碑が建っている。

DSC_1137振り返ると、新幹線の線路が見える。ここはちょうど信夫山を貫くトンネル入口の真上なのだ。慰霊碑の裏側ではなく、同じ方を向いて名前が刻まれているのは、そういうことか。

毎日、このトンネルに滑り込んでいく新幹線を見て、皆さんさぞや誇らしかろう。

いつも当たり前のように乗っているけれど、ありがとうございます。皆さんのおかげです。

(追記:東海道新幹線建設中の殉職者は210名だったそうです)


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