今年の記録

車に乗れば、昼間は冷風・夜は温風。そろそろダウンのコートをクリーニングに持っていこうか。今年は冬タイヤをいつ履き替えようか。3月11日というのは、(福島では)毎年そんな時期である。

今年も昨日まで1週間くらい、テレビをつければ思い出したように「あれから8年」特番ばかり。いや、思い出すのはいいことだ。思い出してどうするかがポイントなのだけどね。私を含めて大半の人は思い出すだけで何もしないし、翌日の今日はもう思い出したことも忘れているだろう。

▲暖冬の今年は2月末に吾妻小富士の雪ウサギが出現。でもまたすぐ隠れた。

こちらに来て6回目の3.11は、家で一日仕事していた。特別なことは何もしていない。1回目から4回目までは浪江町役場の職員としてやることがあったが、5回目からはフリーの身。3.11の迎え方も感じ方も、やっぱり変化している。自分の過去5回のSNS投稿やブログ投稿を読み直してみると、なんと自分は鈍感になり怠惰になったことかと思う。

というか、すべてがもう「日常」になったんだ。モニタリングポストも。家々の庭に置いてある除染廃棄物も。「今日の各地の放射線量」も。古びていく応急仮設住宅も。取材で浜通りにいくとき通る帰還困難区域のバリケードも。ほぼ更地になった沿岸部も。「風評払しょく」を訴える役人の話も。3号機の使用済み核燃料取り出し遅れ云々のニュースも。旧避難区域の人気のない通りとイベントで賑わう仮設商店街のコントラストも。そしてその中で営業再開した事業者たちの苦悩と笑顔も。

ぜんぶ、私にとっては「普段のこと」になった。

▲今日のサギは珍しくジッとしていない。白鳥はずいぶん早く北へ帰った。

先日のNスぺ。復興特需が終わりつつある宮城・岩手では、手厚い経済支援によってせっかく営業再開した事業者たちの多くが(補助金の返済期限を迎えて)再び苦境に陥っているという話だった。たまたま私も取材させてもらったことのある旅館の女将さんが出ていて、胸が痛んだ。と同時に、おそらく似たようなことが数年遅れて福島にもやってくるんだろうと想像せざるを得なかった。

「復興の目玉」として相当な額の公的資金を投入して作られた施設が、ほとんど稼働していないとか1年で休業という話は、すでに福島県内でも聞く。莫大な費用をかけて除染・インフラ復旧をしても「住民帰還率は〇✖パーセントに止まる」で片付けられてしまう。「やっぱり福島に注ぎ込んだあの金は無駄だった」などと言われない、言わせないためにはこれからが正念場だ。そのために自分ができることってあるのか?それは何なのだろう。

そんなことを思案し始めたのも、昨日今日ではない。ここ数年はいつも脳裏にある。ちゃんと書けるような答えが出ないまま、今年の3.11も過ぎていった。

2018322日 いつまでアニバーサリーなんだろう

2017311日 書いておきたかったこと

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左の鼻腔で春を感じる

連休に帰京したのだが、昨日から関東南部では何かの花粉が舞い始めたようである。作朝起きて、実家の雨戸を開けたら途端に左の鼻腔が反応し始めた。もうそんな時期か。

このたび実家でゲットした卓上加湿器

思えば30年以上前、大学生のころの花粉症はひどかった。春先は2か月くらいティッシュボックスを持ち歩いていた記憶がある。鼻水だけでなく目も喉も痒くて大変な思いをしたが、注射も薬もきらいなので、ひたすら過ぎ去るのを待つしかなかった。

それがラッキーなことに、歳とともに自然と症状が軽減。今ではこの国民病からほぼ解放されたつもりでいるが、それでも毎年2月の今ごろ、はげしく鼻水が出る一時期がある。なぜに左の鼻だけ?というのが不思議でならないが、ともかく学生時代と違って目や喉は痒くならず。なにより、 2、3日ガマンしていれば抗体の過剰反応が収まってくれるのは有難い。

とはいえ初日の症状はそれなりに酷くて、昨日は美容院でカットしてもらっている間、くしゃみを催すたびにハサミを止めてもらう必要があった。その後、いつものタイ料理屋で友人のOさんと食事をしたのだが、どうも辛いモノとアルコールでなおさら刺激されたようで。左の鼻から滝のように滴り落ちる液体をナプキンでせき止めつつ飲んで食べてしゃべるのは本人もなかなか大変だったが、見ているOさんもかなり鬱陶しかったに違いない。ごめんなさいねぇmm

これはそのタイではなく、前日に食べた八重洲の南インド。
メニューにあれば必ず注文するレモンライス!

そして、最終のやまびこに乗るため少し早めにレストランを出てヒンヤリした外気を吸い込んだら、「あ、春だ」と思った。これだけ鼻が詰まっていても、春の匂いというのは感じるものなのだ。

この花粉、福島ではまだ飛んでないかな?と思うと、福島駅で降りてもマンションに帰っても鼻水は止まらなかった。あらためて今年の「スギ花粉前線」(1月17日発表)なるものを見ると、東京都心は2月15日の予報となっている。福島市のあたりは2月下旬から3月初の予報だからまだのようだが、でもきっと自分の身体のほうが正確だと思う。

花が咲いて花粉が舞うというのは、春が来たということだ。 暦の上ではもう立春を過ぎてるんだものね。昨晩、福島駅のプラットフォームでも「春の匂い」がしたのは、 やっぱり気のせいではなかったんだね。^^/

 

こうして私の左鼻は今年もちゃんと春の訪れを告げてくれましたとさ(笑)

 

 

福島市をついに「地元」と表現した日

先週、ひと月ぶりに県立図書館に行ったら、ノーベル文学賞歴代受賞者の作品コーナーが特設されていて、カズオ・イシグロの本も何冊か並んでいた。その中に原語のペーパーバックがあったので、久しぶりに英文で小説を読む。イシグロさんを読むのは初めて。文章としては難しくないのであっという間に読めたが、 やはり文学作品というのは 、無機質なニュースなどとは違い、機微というか、ニュアンスの難しさも含めて味わいがありますなぁ。

で、今日その本を返しに行ったついでに寄ってみたのが、如春荘という場所。図書館の隣の県立美術館の目の前にあるのだが、知人のSさんのfb投稿で知るまでその存在に全く気づいていなかった。

なんでも、いまの県立美術館の場所には以前、福島大学の経済学部があったそうだ。この如春荘は、学生さんたちが集う学生会館的な施設だったらしい。1937年(昭和12年)築、ということは私の母と同い年だ。広い縁側のある純和風の平屋。欄間も床の間もシンプルながら意匠を凝らしてあり、見る人が見れば貴重な建築物のはずである。それが昭和54年の大学移転とともに徐々に使われなくなっていき、ほぼ空き家状態に。それを残念に思う有志の人たちが活用を考え始め、去年の秋から月に一度「縁側喫茶」というのをやっているという。

今日はちょうどその「縁側喫茶」の日だった。チラシを見ただけでどんな催しなのかよくわからないまま、ふらっと訪ねてみたところ、なんだかとっても癒されてしまったのである。

Sさん以外は初対面の人たちとコタツに入り、コーヒーと干し柿を頂く。よくあるネットワーキング系のイベントは大の苦手なのだが、あらゆる意味で「下心」がない人たちとの会話はただただ楽しい。改めて、地元・福島市にもいろんな人がいるんだなあと思った。

こんな感想を持つということはつまり、私は自分と同じ街に暮らしている人たちをよく知らないということである。四半世紀の「社縁」生活から良くも悪くもフリーになったのだから、そろそろ地縁の世界に足を踏み入れてもいいのかもしれない。

それにしてもあの居心地の良さは、むかし大勢の学生が集った如春荘という場所の力もあったんだろうな。ほんとうに、これから活用が進まなければ勿体ないと思う。

真冬のコタツも良いが、本当の縁側喫茶の季節が楽しみだ。

福島生活6年目にして

あー、終わった。すべてがイレギュラーになる「年末年始」という特別期間が終わると、毎年心からほっとする。

大晦日と元旦は、福島に来てから初めて 実家に帰らず一人で過ごした。ボッチの年越しを気恥ずかしく思うような年齢はとっくに過ぎている。十何年ぶりかで紅白歌合戦を見て、誰にも気兼ねせずテレビと一緒に歌って踊れたのもボッチならではだ(笑)。それにしても最近やたらと何でも「平成最後」という枕詞が付くが、去年の紅白は平成というより昭和を締めくくるにふさわしい内容ではなかったか。

年明け。今年は小売業界も元旦だけは休みにするところが増えたと聞いたが、福島駅前周辺ではイトーヨーカドーのみならず、福島県観光物産館も元日から元気に営業していた。従業員の方々は大変だなーと思いながら、ラウンジにていつもの日本酒飲み比べ。だれとも話さない静かな一日は翌日からしばらくお預けだから、 ちょっと贅沢に焼ウニをつまみながら一人まったりと過ごす。

そして正月2日から1週間の帰省中は、例年のごとく実家の掃除と久しぶりに会う友人たちとの楽しい会食に明け暮れた。東京の外食シーンは本当に贅沢だ。福島ではなかなか食べられないオーセンティックなアジア料理が食べたくて、北インド、カンボジア、四川、モロッコと堪能し、その合間には福島にはない横文字のカフェで長いカタカナ名のドリンクをいただく。どれも確かにおいしかったが、財布はものすごいスピードで薄くなっていくのだった。

▲古き良きアンコールワット@代々木▲

実家の母はもう料理らしい料理をする体力がないので、家での夕飯はもっぱら出来合いの総菜である。帰省している娘が作らないのかと言われればその通りだが、普段使わない台所で普段使わない道具と具材と調味料で料理するというのは、結構シンドイのである。そもそも両親の食べたいものと私の食べたいものはほぼ一致しないので、それぞれが食べたいおかずを買って帰るのが合理的なのだ。それでも福島土産の日本酒だけは多少は一緒に楽しめたから、良しとしたい。

というわけで、今年も飽食まみれの「年末年始」特別週間を無事終えて、福島に戻って来たら、年末に降った雪が日陰にはまだ残っていた。なんだか1週間が夢みたいだ。再び静かな日常に戻る。

最初にやったのは、lifeinfukushima.comというドメインネームを買い、ついに仕事用のメルアドを作ったことだ。こんなネームを使い始めたら、私はもう福島から引っ越せないではないか!という心の声はノマド志向の私の半身から。もう半身は、「今度こそ逃げないで腰を落ちつけよ」「凡人にとっては継続だけが力なり」と言っている。(「継続だけが力なり」は年末に人から聞いて得心した言葉)

というわけで、この福島生活ブログもlifeinfukushima.comとURLを若干変更し、この先しばらく続くのであります。今年もどうぞよろしくお付き合いくださいませ。m(__)m

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大河ドラマで1年を振り返るなんて歳とった証拠なんでしょうけど

昔から時代劇が好きとか大河ドラマファンとかでは全くないのだが、今年の「西郷どん」はほとんど毎回見ていた。おかげで維新前後の歴史に興味が湧いて本は何冊か読んだし、もちろん林真理子の原作も読んだから、西郷隆盛がどういう最期を迎えるのかは知っていた。それでも、1年間毎週見ていたキャラクターが死んでしまうのはやっぱり悲しいものである。

考えたら、大河ドラマをちゃんと見るようになったのは福島県に来てからだ(唯一の例外は1978年の「黄金の日々」で、あれだけはいくつかシーンを覚えている)。2014年1月に東京から二本松市に引っ越して、その年やっていたのは「軍師官兵衛」だった。まだこちらに友人も知り合いもおらず、家の周りは田んぼだったし、週末はさぞ暇だったんだろう。いつの間にか日曜20時はテレビの前に座る習慣になっていた。

▲当時のアパートの隣の田んぼ▲

うって変わって翌2015年は、4月から母が長期入院して毎週末東京に帰っていたからテレビどころではなかった。大河ドラマは「花燃ゆ」だったそうだが、そのタイトルすら全く記憶にない。

次の2016年は、2月に福島駅近にマンションを買い、4月に引っ越した。客間ができて友人の来福も多少は増えたからか、この年の「真田丸」はチラチラしか見ていない。昔アイドルだった草刈正雄がなんだか面白いキャラクターになったんだなーと、感慨深かったのを覚えているくらいだ。

2017年は、ご縁があって復興の手伝いをしていた浪江町が一部避難指示解除となり、そのタイミングで私も宮仕えを完全卒業するという、ある意味記念すべき年だった。書き物の仕事だけでは有り余る時間を使って、やったことない仕事に挑戦すべく農業デビューと先生デビューを達成。そんなで、「おんな城主直虎」をちゃんと見始めたのは農家バイトが一段落した10月末くらいからだったと思う。

▲福島駅前のイルミネーション▲

そして今年2018年、ほぼ毎週日曜に「西郷どん」が見られたのは、プータロー生活in福島がそれなりに落ち着いてきたという証なんだろうか。振り返れば、1年間同じ番組を見続けるという経験は「太陽にほえろ」以来かもしれない。でもあれは一話完結だったからな。ストーリーを追うドラマでこんなに長いのは初めてだ、きっと。

で、なんですかね、この喪失感(笑)。ドラマだから当然演出もあるわけだけど、最後に西郷さんが敵の弾に撃たれるところなんて、それこそ「太陽にほえろ」の殉職シーンを彷彿としてしまったのは私だけでしょうか?w

もっとも、演出はあるにしても、近代国家ニッポンが生まれるためにたくさんの血が流れたことは事実だ。日本人はつい140年前まで、日本人同士で殺し合っていたんである。

その夜、布団に入って寝る前の読書は「ホモ・デウス」。前作の「サピエンス全史」ほどスムースに読めなかったので、2ラウンド目である。7万年前の認知革命以来の歴史から考えるサピエンスの未来はあまりにマクロすぎて、西郷隆盛の50年に満たない人生の追体験を終えたばかりの頭には、ギャップが激しい。が、つい20世紀まで「平和」とは戦争していない状態のことを指していたのだという指摘には、思わずまた西郷どんの、いや鈴木亮平の顔がよみがえってくる。

さて、私の福島6年目となる来年の大河ドラマはどう振り返ることになるんだろうか。なんにしても、平和に感謝して新年を迎えたい。

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