人生すべて、周囲の理解とタイミング

先週、こんどは父が入院した。

去年は母が4か月半も入院し、一時は危篤に。その間ほぼ毎週末二本松と東京を往復して、JRには数十万を支払った。ほかにも駐車場代やタクシー代、それに帰省中は自宅で自炊するのとわけが違うから、なんだかんだで食費もかかる。

親に会いに行くのにお金を惜しむわけではないが、現実問題として、離れた場所にいる親の面倒を見るのはそれなりに経済的負担となる。私が地方暮らしの場所に福島を選んだのは、第一にはたまたま仕事があったからではあるが、やはり東京に近いという理由も大きい。これが同じ東北の被災地でも岩手の北の方だったりしたら、おそらく移住には踏み切っていなかったと思う(それに寒いし)。

四十も後半になれば、友人との会話もだんだん自分の健康と親の病気の話題が多くなり、変な時間に電話が鳴れば「いよいよ来たか」と覚悟を決めるようになる。といっても、私が2年前にお試し移住を始めたころは親はまだ元気でいてくれたので、「親が倒れて駆けつける」というシチュエーションは頭ではわかっても現実感は薄かった。

というか、元気だったからこそお試し移住もできたわけで、もし決断が1年半遅れていたら、いま自分は福島にいなかった。こんなたくさんの人に会うこともなかったし、こんなに人へ伝えたいこともなかっただろうし、だからこうしてブログを書いてることもなかっただろう。そういう意味では、あのタイミングで決断しておいて本当によかったと思う。人生、そういうタイミングって何度かあるものだ。

それと、単身移住の可否を決めるのは兄弟の存在。自分の場合、ありがたいことに弟が親の近くに住んでよく面倒を見てくれるので、勝手な姉は「お試し移住」とか言っていられるんです、はい。

幸い、今回の父の入院は大したことなく1週間で帰ってきてくれた。残念ながら親は年取っていく一方なので、これからもあわてて新幹線に飛び乗る機会はあるだろうが、運よく福島にちょうどいい家が買えたら、一度くらいは連れてきたいものだ。

(写真は、正月に実家の近所を親と散歩中に見つけた山茶花)

女ひとりで京都にいった理由

京都にいってきた。

高校時代の友人がやっているロシア料理の老舗、キエフというレストランで、毎年この時期、原田真二さんのディナーライブがある。福島生活初年度の昨年はスキップしたが、今年は2年ぶりに参加を決意。初めて夜行の高速バスに乗って京都へ向かった。この夜行バス、新幹線より4割安いし、なにより寝てる間に移動できるというのは効率的。どんな環境でもぐっすり眠れる人なら断然おススメである。が、オバサンにとっては正直そろそろ体力的にきつい感じがしました、はい。

さて、音楽家の原田真二さんですが。

1977年のデビュー当時はアイドル扱いでテレビに出まくっておられたので、私の世代ならだれでも名前は覚えてると思う。私がつたない紹介をするのもなんなので、プロフィールやディスコグラフィは公式サイトをご覧いただくとして、何が言いたいかというと、この方デビューして38年間、ずっと同じメッセージを歌い続けているんである。それも平和とかやさしさとか、愛は地球を救う的な、ストレートに言われると少々照れくさいようなメッセージ。

かくいう私も、実は途中30年ほど彼の存在を忘れていたのだが、大震災のあった2011年になぜか突然思い出し、そこから「失われた30年」を一気にキャッチアップしてみて(動画サイトよありがとう)、びっくらこいたのである。この人、ずーっと同じこと言ってると。もちろん年代によって言葉遣いや音の作り方は変わっているのだけど、コアは同じ。音楽で世の中を良い方向に変えられると本気で思っている。とことん性善説。とことんポジティブ。実際、彼の楽曲で聞いていて暗くなるものは一つもない。

なにごとも自分の心次第で見え方が変わるとか、宇宙の視点を持つことの大切さとか。逆に、二十歳そこそこの若者がこういうことを歌っていたというのもスゴイよなと思う。愛と平和みたいな直球を投げる人をナイーブと呼ぶのは簡単だが、シニカルに構えるだけで何もしない人々より私はなんぼか尊敬する。

東日本大震災で原発が爆発したとき、私は福島から200キロはなれた東京で生活していた。東京でもみな大なり小なりストレスを受けたと思うが、私はあの数週間、身体はもちろん心までカチカチになってしまって、苦しくてしょうがなかった。そのカチカチの正体は「怒り」だと気づいて、いろんなものを赦さなければと思った。国も東電も赦そう、買い占めに走る人々も、彼らを赦せない自分も、みんな赦そう、などと当時facebookに書きこんだのを覚えている。でも怒りをリリースするってなかなか難しい。

そのとき三十数年ぶりに聞いた曲が、原田さんのcarry onという曲だった。

Carry on, carry on 動き続けろ 悩みと憎しみ捨てて

Carry on, carry on 愛し続けろ あなたは微笑む、必ず

…けだし名曲。これを聞いてなんだか救われた気がしたのだ。(聞きたい方はググってください。似たタイトルの曲もあるのでご注意を)

DSC_1537その後2年は、追っかけというには程遠いがけっこうライブに通った。ライブで原田さんは必ず、「一人ひとりができることをやろう、どんなに小さなアクションでも必ずまわりに影響を与える」という意味のことを言う。そして私は、その言葉になんとなく背中を押される感じで、気がついたら福島に来て復興支援の仕事をしていた。

もちろん福島に来たのはそれだけが理由じゃない …というか、すいません少々盛りましたm(__)m が、かなり影響を受けたのは事実。ちなみに原田さんは、現在でも定期的に東北の被災地へ赴いてチャリティライブを行っている。

京都のディナーライブへ行くのは今回が3回目だ。もちろん原田さんが目当てではあるが、半分はそのレストランをやっている友人に会いに行くようなもの。今回も友達の友達の輪がひろがって、かなーり楽しい一夜となった。無理して夜行バスでいった甲斐があったというものである。(写真は二次会のお茶屋さんにて)

以上、本日は私の地方移住のきっかけのきっかけのお話でした。

この世は夢のようなもの

週末は帰京、実家で過ごした。2か月前に母がやっと退院したと思ったら、こんどは父が1週間の検査入院だ。母はまだ一晩一人にしておける状態でないので、弟と交代して2日ほど泊まり込み。これが一人っ子だったらほんとに大変だと思う。

母は入院中の薬が原因なのか、あるいは4か月も病院のベッドで昼夜がわからない生活してれば誰でもそうなるのか、短期記憶の喪失がどうも治らない。最近では、実際に起きていることを頭では理解しているが、すべて現実ではないような、夢を見ているような心地なんだそうである。→もしかして、それって「悟り」じゃん(笑)。一度死にそうになって生き返ったけど、実は自我が消滅して仏さまになったのかもしれないよ、と言ったら、最初は面白がっていたが、やっぱり悟りなんか開かなくていいそうだ。てか、冗談言ってられるうちに、ちゃんと成年後見人制度も勉強しておかなければ。

しかし自分が一人でこういう状態になったらどうするんだろう。延命治療の拒否や臓器提供なんかは、見つけやすいところに書いておけばいいだろうが、認知は厄介だな。我ながら娘がいたらなにかと便利だろな、とは思うがもう手遅れじゃ。でも子供がいたからって頼りになるとも限らないしね。80歳まで健康で、80歳すぎて病気になったら、医者にかからずそのまま死にたい。

今夜からだいぶ冷えている。初めて暖房をつけてみた。寒いのと暗いのはどうしても嫌い。

移動型移住もいいじゃない

昨日の午後は、東京で久しぶりでMさんと会った。Mさんは前々職で短期間ご一緒しただけだが、なんだかご縁があって、バリ島やスリランカにも一緒に旅行したことがある。実は彼女、「50歳からの単身地方移住」の大先輩である。数年前に長崎に移住して、私も2回ほど遊びにいったが、ここ1年ほどなんとなく音信不通になっていた。それがひょんなことでメールをもらって、東京で会えることに。二人ともこの間の変化は大きく、お互いの近況をキャッチアップするのに3時間ではぜんぜん足りない。エネルギーとバイタリティあふれるMさんは、自他ともに認めるノマドタイプ。九州に越してからも、少なくとも3回は住所が変わっている(笑)。移住者を増やしたい地方自治体は、「移住=定住」という前提でしか考えないが、数年単位でぐるぐる地域間を移動するような「移動型移住者」だって、取り込むメリットは十分あるのではないか?

今日参加した「新しい東北フォーラム in 仙台」で元右腕(※)仲間のE君と会って、シニア(40代以上でシニアか?まあいいや)の転職移住を官が経済的にサポートするというプロジェクトが始まったことを知った。まだちゃんと資料を読んでないが、定住よりはもっと気軽で、お試し移住よりは落ち着いた「移動型移住」を(も)バックアップしてくれる制度ならいいなと思う。私とて、Mさんほどノマディックではないが、移動の欲求は常にある。そういう人は多いはず。

(※)右腕派遣プログラム:NPO法人ETICが展開している被災地への人材派遣プログラム。筆者はもともとこれで福島へやってきました。