しばしお休み

なんだかこの1か月ほど、いろんなことがあった。

生きてる間は身体に気をつけよう1

7月初めから入院していた父が、10月半ば、ついに亡くなった。子より親が先に亡くなるのは順当だから、別に驚くことでもない。悲しくないと言えば嘘になるが、いつかは来る日であった。

直接の死因は肺炎。いまどき肺炎といえば新型コロナを思い浮かべるが、原因はほかにもいろいろある。父の場合は数年前から徐々に嚥下のための筋肉が弱り、誤嚥を続けて肺炎が悪化したということらしい。

振り返って、あの時ああすればこうすれば、という思いはある。コロナさえなければもう少し見舞いにも行けたのに、とも思う。でも今さら言ってもしょうがない。父自身、もうリハビリをがんばって生きる気力はなくしていたので、早く楽になって良かったと思う。

誤解を恐れずに言えば、人には死んで楽になる権利だってあるはずだ。3ヶ月ぶりに家に帰った父の死顔は明らかに、生きることから解放されて安らかであった。

生きてる間は身体に気をつけよう2

父の死と前後して、フリーになって初めて取引先とトラブルになった。30年超の社会人生活で仕事上のトラブルが皆無だったわけはない。が、これほど理不尽な思いをしたことは人生初だった。これも私の不徳の致すところと考え、二度と同じことが起こらないように精進するしかない。でも今は、精進するためのエネルギーが湧いてこないのが正直なところだ。

そしてコロナの第3波。父の葬儀で川崎に帰っただけで、福島市内の馴染みの店へ行く前に自主隔離しないといけない。心が折れる。

ということで、12月はゆるゆる休みますmm

(半分は営業用ポートフォリオを兼ねたこのブログで、取引先とのトラブルがあったなどと書くのは愚の骨頂かもしれないが、私自身は決して恥ずかしい仕事をしていないつもりであるので、こういうことも含めてオープンに書いていこうかと。)

Bye Bye Papa

父:ほら、これがワンちゃんだよ。名前はカロだよ。

私:うん、でもパパ、いまカメラこっち向いてるから。

カロ:ちょっとそんなに手ひっぱんないで。え?カメラどっち?

たぶん昭和40年初めごろのひとコマ。

子どもが好きな父であった。母はいちど流産しているので、私は待望の第一子だったはずだ。それから半世紀あまり。孫の顔を見せるという大事な仕事は弟が担ってくれて、私は好き勝手やってきた。間違っても孝行娘ではなかったが、とくべつ親不孝でもなかったと思う。だから、まあいいか。最後にちゃんとありがとうも言えたしね。

87年おつかれさまでした。楽になれてよかったね。もうカロには会ったかしら?ボンやタケやジョンにもよろしく。バイバイ、パパ。だいじょうぶ、私は幸せです。

ごちそうさま

ナス、トマト、キュウリ、インゲン、オクラ、枝豆、トウモロコシ、シソにミョウガ。そして桃。盛夏である。

私が福島に来て最初の役場勤め時代は、とにかく食べ物を頂くことが多かった。出張土産の菓子はもちろん、兼業農家の同僚や釣り好きのご主人を持つ同僚、お菓子作りが趣味の同僚などから、季節の野菜、とれたてのイクラ、プロ顔負けの手作りスイーツ等々。

フリーになったらそういう有り難い職場の頂きものは激減したが、それでも女子会だのなんだので集まると、食べきれないからもらって〜という農産物のおすそ分けは結構頂いた。

そして、コロナで人と会わなくなったら当然おすそ分けもほぼ皆無に。それでも今月は果樹園の手伝いに行った友人からハネ物の桃を1箱頂き、もうしばらく食べないでいいわーというくらい堪能したが、その他の野菜果物はせっせと買い出しに行かねばならない。

新鮮な旬のものが安く買える産直は大好きだが、難点といえばおひとりさまには量が多すぎることである。中でもシソやミョウガなどの薬味系は、ドサっと1袋買ってしまってからハテどうしたものかと悩む。ミョウガなんてスーパーなら3個の値段で20個くらい買えるのだから、使い切れずに捨ててもいいや、とはどうしても思えないタチなので、むしろ薬味から献立(全て酒のアテ)を考える日々が続く。

そこへ先日、SNSの友人の投稿で、叩いた梅干しとミョウガを和えてアボカドに載せるというカンタンレシピを発見。以来、大量のミョウガが見る間に消費されるようになった。(そういえば昔、ミョウガを食べすぎると馬鹿になると聞いた記憶があるが、私の頭くらいでは気にする必要もなし。)

ちなみにシソは、カボチャとナスの揚げ浸しに大量に載っけて爆食いがマイブームである。

75年前の今ごろ、終戦直後の東京。小学生だった母はひもじい日々を覚えている。お腹を空かせて学校から帰ると、カボチャをぐずぐずに煮たものがオヤツだった。調味料がないから味付けもない。薬味どころではない。夕飯はパサパサのサツマイモ一つ。農業の経験のない祖父が小さな畑を借り、見よう見まねで作ったイモだったが、いくら腹ペコでもまずいものはまずい。泣きながら食べたそうだ。

その祖父はまた、家族のために満員電車で食料の買い出しにいった。痩せた身体に満杯のリュックが重く、転ぶと仰向けにひっくり返った亀のように立てなかったが、誰も助けてくれないのが悔しかったという。そんな祖父があるとき、わずかな白身の肉を買ってきた。「今日はごちそうだぞ、これはヘルカという肉だぞ」。みんな喜んで食べた後にカエル肉だと知って仰天したそうだ。

もっとも母の記憶もかなり怪しいから、こういう昔話の細部がどこまで正確か分からない。が、戦後の食糧難、特に生産手段を持たない都会の住民にとってコメや野菜などの基礎的食料の入手が困難を極めたことは確かだろう。それらを売る側の農家が「偉そうにしていて悔しい思いをした」という祖父の台詞は母の脳裏に焼き付いているようだ。

たった75年で世の中こうも変わるとは……ね。今日もおいしいミョウガと梅干しとアボカドとカボチャとナスとシソを頂きながら、しみじみこれを書いている。

ふるさと

正月。老親を家に置き、一人になって駅まで散歩する。この道を歩くのは何百回目か。

国道を渡ればすぐ商業地区だ。いつものとおり、暴力団の事務所や風俗店が並ぶ近道を行く。廃業して久しい角の小さなスナック。陽の当たらない路地の極狭の家々。

駅に近づけば元日から営業している飲食店、パチンコ屋。その裏手に積まれたゴミ袋の山。

消えてゆく店。新しい店。特設売り場。イベント会場。街にたむろする大勢の人々。賑々しく、平和だ。私もしばしその中に混ざって、当てもなくウロウロする。

山も川も海もない。うさぎも小鮒もいない。伝統芸能も郷土料理も、母の味すらない。でも私はここで生まれ育った。血のつながった家族がいるのはここだけだ。ここが私の帰る場所。ここが私の「ふるさと」。

--とりあえず。

郷愁という言葉の意味を、私はいまだに想像することしかできないのだった。

今年も一年、心穏やかに過ごせますように。

写真では伝わらないので来てください

浄土平。なんとふさわしいネーミングだろう。何度訪れても飽きない。個人的にベストシーズンは9月中~下旬、リンドウやススキの花が咲くころだが、10月に入った今日も十分美しかった。

この湿原の植物たちといい、 周りの山々の木々といい、 それらの織りなす色のグラデーションはとうてい言葉では表現できない。いくらiPhoneのカメラが高性能でも、その美しさを画像で伝えることは不可能だ。(と言いながら習性でついカシャカシャやってしまうが…)

浄土平に来たらたいてい、道路をはさんで向かいの吾妻小富士に登る。登るといっても整備された階段が数百段、火口を一周して降りてきて1時間かからないのだが、ちょっと運動した気にはなる。なによりこの眺め。

▲吾妻小富士から見た吾妻山(一切経山)。噴煙が前より多い。活きてる山▲

ここが自宅から車で1時間というのが、私が福島を離れられない理由のひとつと思う(笑)

▲浄土平をパノラマで撮ってみたらこうなった▲

去年の今ごろ、老親がなんとか二人で新幹線に乗り、私を訪ねて福島にやってきた。高湯温泉に泊まり、翌日はぜひここに連れてきたいと思ったのだが、その少し前から吾妻山の噴火警戒レベルが引き上げられ、紅葉シーズンを前に観光道路の磐梯吾妻スカイラインが通行止めに。浄土平も立ち入り禁止ゾーンに入ってしまった。浄土を見せてやれなかったのが心残りで今年はリベンジと思ったが、残念ながら彼らはもう電車に乗って遠出するような体力も気力もなくなってきたようである。

今日、一人でスカイラインを走りながら「また来年」という言葉が浮かんだが、飲み込んだ。

たしかに季節はめぐる。産直に行けば「ああ、またこの季節が来たか」と思わせてくれる産物でいっぱいだ。私はあと何回サクランボを食べ、ブドウを食べ、イチジクを食べられるんだろう。

今日が最後でも悔いないように生きないとあかんね。こんな極楽浄土に行けますように…

▲そして人はなぜか石を積む(笑)▲