これからの天災は忘れる前にやってくる

少し時間が経ってしまったが、先月13日(土)の福島県沖地震の話。当日、報道を聞いて心配した友人からたくさんメッセージをもらったが、私はたまたまその週末は川崎の実家に帰っていた。木造築40年超の我が実家もけっこう揺れて、急いでテレビをつけたら福島が震度6という。私も福島の友人たちのことを心配して一晩スマホにかじりついたが、幸い知っている範囲にケガ人も大きな被害もなかったようで一安心した。

私自身は日曜の夕方に福島に戻るはずだったが東北新幹線がストップ。翌日には復旧するだろうとタカをくくってしばらく静観していたら、再開まで10日以上かかるという。あわてて数年ぶりの高速バスを予約しようとして驚いた。福島交通/JRバスの「あぶくま号」が、以前の半分以下の1日2本に減便されているではないか!コロナの影響がここまで来ているとは知らなかった・・・それほど利用客が減っていたのか。ショックだった。

実は、「あぶくま号」の他にも別の会社が運行する新宿~福島~仙台の直行バスが、夜行も含めて1日数本走っていることを後から知ったのだが、それまで私の頭には高速バスといえば「あぶくま号」しかなかった。東京からの移住当初、二本松市に住んでいた頃に高速バスを利用していて、二本松バスストップという停留所があるのは「あぶくま号」だけだったのだ。今の私は福島駅近くに住んでいるから他社の直行バスでも良かったのだが、(東京~福島の途中にある)須賀川や郡山、二本松で乗降したい人はやはり「あぶくま号」が無くなったら困るのではなかろうか。

それに加えて先日発見して大きなショックを受けたのは、JR「おトクなきっぷ」の一部の廃止である。私がしばしば利用する福島⇔仙台の新幹線Wきっぷなどは特に割引率が高く、かなり助かっていたのだが・・・ これも間接的にはコロナのせいなのか・・・

さて、私は地震から4日後、「あぶくま号」午前便のチケットを無事入手して、5時間かけて福島に戻ってくることができた。強烈な揺れで窓が外れたとか割れた食器が散乱したとかいう友人の話を聞いていたので、マンションのドアを開けるときは恐る恐るだった。ところが、幸い室内は拍子抜けするくらいほとんど何事も起こっていなかった。もともと背の高い家具等は置いていないが、絶対に落ちていると思った卓上の植木鉢がそのまま。棚上のスプレー缶までそのままだったのにはびっくりだった。この話をすると、おたくは免震構造ですかと聞かれるがそういう訳ではない。普通の耐震である。揺れの性質や方向的にラッキーだっただけだと思う。

今回の地震は死者が出なかったためか全国はもちろん県内ニュースでも、もうその後の報道はほとんどされていない。しかし場所によっては、倒壊こそ免れたものの深刻な被害を受けた建物も実は少なくないようだ。知り合いに見せてもらった写真には、バツの字に大きな亀裂が入った壁からコンクリがこぼれ落ちているマンションや、梁だか柱だかが折れて落ちている室内が写っていた。これでは本当に怖くて住めないだろう。常磐道の一部や二本松市内では大規模な土砂崩れもあった。本当に死者が出なかったのは幸運であり、津波が来なかったことを天に感謝するしかない。

10年前も、もし津波さえ来ていなかったら犠牲者の数は桁違いに少なかったはずだし(東日本大震災の死因の9割は溺死)、原発事故も起きていなかったかもしれない。起きていなければ避難生活のストレスなどによる「震災関連死」も起きずに済んだ。それでも溺死以外の死亡が千人以上いるのだから大災害であったことには間違いないが、後世にこれほどまでのインパクトを残すことはなかったのではないか。

まあ、今さらそんな「たられば」を言ってみてもしかたない。先月の震度6強も10年前の余震だというのだから、東北ではこれからも「その後」はまだまだ続く。福島ではそもそも原発事故そのものが終わっていない。

再びあの規模の(あるいはそれを超える)地震と津波が来ても、私たちはもう想定外とは言えないが、こんどは新型コロナという想定外が日本中・世界中に起こってしまった。結局、すべてを想定することなどできないけれども、それでも起きてしまったことから何かを学び、次に生かさなければ、犠牲になった人たちは浮かばれない。「風化」=残された人たちが何も学ばず同じ災禍が繰り返されること。だとすれば、私は何を残しただろう、というより、私は何を学んだだろう。心もとないが自らに問い続けねばと思う。(写真=福島県双葉町に昨年開館した伝承館)

9周年回顧

世の中テレワークとやらが流行りだが、もともと「家で仕事」が基本の私は大して違和感を感じていない。ただ、仕事が端境期で時間がたっぷりある。そこで唐突だが、今回は思い出話をしようと思う。

4年くらい前のこと。当時、原発事故で全町避難中だった自治体に応援職員として勤めていたとき、役場にはいろんな電話がかかってきた。その中には、町民が避難している先の県内自治体住民からの「お前らはけしからん」という電話もあった。

一時期、毎日のようにかけてくる年配の女性がいた。「あんたら住民税も払っていないくせにゴミ出しがなってない。あんたら高速道路も医療費もタダだから、あんたらのおかげで病院は大混雑で迷惑だ。あんたら賠償金で御殿を建てたと思ったらこんどは高級車かい。」 熊本地震があったときは「あの人たちはあんなに大変な思いをしてるのに賠償金なんか一円ももらってないんだ、あんたらもらった金を熊本の被災者へ送れ。」等々。

こちらはひたすら、はい、はい、と聞き続けるしかない。最初はただ難儀だなあと思っていたが、そのうち複雑な気分になった。その女性はときに1時間以上もそうやって思いのたけをぶちまけると、最後には我に帰って言うのだ。

「どうしてこんなことになっちゃったのかねえ・・・」

続けて、「あんたたちも大変だね、がんばりなさいよ」などと言うときもあった。実際はその女性も「被害者」なのだ。気の毒だと思った。

同じ福島県内でも、さらに同じ自治体の中でも、放射性物質による汚染度合によってナントカ区域・ナントカ区域というものに分けられた。そもそも汚染の濃淡が行政区の境とぴったり合致しているわけもないのに、その線引きに従って賠償金が出るかどうか、出る場合もその多寡が決まった。道路一本挟んでという状態がたくさん生まれた。

おカネが絡むと変わってしまう人は多い。その女性の気持ちもよくわかる。こんなことがなければ、おそらくクレーム電話を長々とかけてくるような人ではなかったのだろうと思う。

同じころ、町民に対して国から避難指示を解除したいという説明をする、一連の「住民説明会」というものが行われ、私も役場職員として何回か出席した。といっても私はもちろん会場設営スタッフの一人であって、檀上で説明する側の立場ではないのだが、あれほど「いたたまれない場所」を経験したことはなかった。

意見を言う多くの人が解除に反対だった。反対意見というよりは怒りの表現だった。受け答えはどこまでもかみ合わなかった。ほんとうは放射線量が心配だからではない、解除されて避難区域でなくなったら賠償金がもらえなくなるから反対なんだろう、という揶揄も世間にはあった。実際、解除の是非を話し合うはずの場で、発言は賠償金にも及ぶことが少なくなかった。「どうして●●町と●●町とでは同じ●●なのに賠償金の扱いが違うのか」等々。

やっぱりカネなのか。

いや違う。ほんとうはカネの話なんかではない。元に戻せと言ってもどうやっても元に戻せないことはわかっている切なさ。結局カネでしか落とし前のつけられない悔しさ、無念さの発露だったのだと思う。

とはいえそのカネ自身がまた、一種の麻薬になり得る。あれから9年。賠償金も補助金も税の減免もそうだ。それがなければやっていけない状態がそれほど長期間続けば、「中毒」になってしまったとしてどうして責められよう。

もちろんそうならず、想像を絶する努力で自ら道を切り開き、がんばっている人たちは少なくない。そこに「希望」を見出し、彼らを応援すればいい。実際、私はそういう人たちの話をたくさん書く機会をもらってきた。マスコミの「3.11から9周年」特集は新型コロナのせいもあって至極控えめに見えたが、そういう「希望」を扱う記事も多少は全国の人の目に触れたはずだ。

が、一歩ひいてマクロで眺めるとどうか。いまだに帰還困難区域が残っているという現実だけからいっても「福島の復興は道半ば」なのは客観的事実だ。けれども、おカネが途切れると困るから「まだまだ復興してません」と言い続けなければならないとすればアリ地獄である。少し前、同じ首都圏からの移住組ライターのYさんとこの話題を話していて、「ほんとうは復興なんてしないほうがいいんだ」と口走った自分に、自分で驚いた。

なんでそんなことが口をついたのか。その理由の少なくとも一部は、おそらく、私自身も「復興予算」という名目で降りてくるお金のおこぼれに与る仕事をしているからだ。そういう仕事をもらうとき、ある種の使命感に加えて、私が「フクシマという特殊な環境」の内にいることを自分の「付加価値」の一部にしようとしていることは否めない。だから「特殊」でなくなると困るのである。旧避難区域から70キロ以上離れた県都・福島市に住むお気楽ライター稼業の私が、こうなのだ。

こんなことは書いてはいけないことだった。書いてもしかたないからだ。福島にはこんなフクザツな問題がある、ということを知ってもらったとして、だからそれが何につながるというのだ。

同じ社会問題でも、たとえば児童虐待とかプラスチックごみとかの話であれば、それについて発信し社会的関心を高めることで政治イシューになり、やがてなんらかの政策につながるかもしれない。あるいは個人の意識が高まり、行動の変化が課題解決につながるかもしれない。

だけれども、この、おカネによっておかしなことになっていく福島の(一部の)問題というのは、当事者以外が知ったところで「大変ねえ」としか言いようがなかろう。既にこの地の「問題解決」のために、国のおカネはこれ以上ないほど注ぎ込まれている。日本の他の地域がこの現状を他山の石として学ぶことがあるとすれば、いったい何なのだ。これほど多くの人を苦しめてきた事象から得られる教訓は?同じことを繰り返さないための教訓は?

どうしてこんなことなっちゃったのか・・・

繰り返す以外に今の私に答えはない。新型コロナ禍の裏で、数々の問題は静かに進行していく。

フクシマフィフティ

映画「Fukushima 50」を観てきた。

いろんな見方があろう。福島県民と県外の人、同じ県内でも浜通りと中通りの人、避難区域にいた人とそうでない人。受け取り方、感じ方は違うと思う。でもやはり、この映画が世に出た意味はあると思うし、多くの人に観てほしいと感じた。

映画の冒頭に「これは事実に基づいた物語です」という断りが入るとおり、ノンフィクションとはいっても、当たり前だが一定の脚色は施されている。ほんとうに事実を知る人たちにとっては、一種の気持ち悪さを感じるところもあるかもしれない。私が浪江町役場で広報の手伝いをしていたとき、大震災直後の浪江町を題材にした、ある芝居の脚本の確認依頼を受けたことがあった。あの日あの時浪江にいたわけではない私に真偽の判断はできないので、当時を知る周りの職員に聞くと、やはり細かいセッティングが「事実と違う」部分は多かった。しかし、突っ込み始めればきりがない。このときも「事実に基づく物語」という一文を入れてもらうことで決着した。

映画も芝居も、報告書や記録誌とは違う。その意図は別のところにある。私が感じたこの映画の意図は、あの日あの時あなた自身は何処にいて、何をして何を考えたか、もう一度思い出せということだった。

9年前の3月11日金曜日。私は東京・南麻布にある、テンプル大学という米国大学の日本校の広報をやっていた。大学といっても普通のオフィスビルに入居しており、私のオフィスは4階だった。東京もたしか震度5強だったか、今までと違う大きさの揺れにあわてて階段を降り、道路に出た。今でこそ「あわてて外に出ず、まず机の下」が常識なのだろうが、そんな心の準備はなかった。当時は直前にニュージーランドで地震が起き、建物倒壊のシーンが記憶に新しかったこともある。

このとき、詳細は覚えていないが私はおそらく、真っ先にオフィスを飛び出したのだ。当時、私はスタッフ5人を持つマネージャーだった。日本の大学と違って春休みではなかったので、同じフロアに学生たちもたくさんいた。隣は学長室だ。なのに、気が動転した私はスタッフや学生を先に逃がすでもなく、どんな行動をとるかを学長と話すでもなく、我先に階段を駆け下りたような気がする。

結果的に建物はまったく無事で、スタッフも学生もケガ人などは出ていない。が、しばらくして「自分は曲りなりにも上長のくせに真っ先に逃げた」ということに気づいたときの、あの恥ずかしさ。しょせん自分はこの程度の人間なんだという気づきは、どれほど受け入れ難くても真実だった。

こんな話を書いても恥さらしなだけだが、映画Fukushima 50はあらためてそれを思い出させてくれたし、それにフタをしてきた自分にもう一度向き合う機会をくれた。向き合って、受け入れられれば、先に進める。

震災後の2週間ほどは、文字通り映画の中にいるような感覚だった。学生も教職員たちも外国人が多い。アメリカだけでなく多国籍だ。みな自国大使館の飛ばすチャーター機で、あるいは自力で、どんどん西へ、国外へ出ていった。木曜日にはテンプル大の米国本校がチャーター機を飛ばし、残った外国人学生を逃がした。同時に、日本人学生向けには関西方面へ向かうバスがチャーターされた。

混乱のさなか、アメリカ人の学長と日本人の副学長、そして私と3人で学長室に集まり、もうこれで終わりかもしれない、といって涙したのを覚えている。もちろん、Fukushima 50 の同じセリフとは意味も重さも違うのだが、そういう気分だったことは確かだ。

そして計画停電。私は自宅も職場も23区内だったから免れたが、川崎の実家に帰ったとき一度だけ、3時間の停電を経験した。午後3時、いっせいに電気が消える。ぜんぶ信号の消えた道の不気味さ。たかが3時間だが、あれを体験できたことを今となっては有難いとさえ思う。

あのとき、考えたのだ。私たちは電気がどれほど必要なのか。その必要な電気を賄うため原発は本当に必要なのか。知らないなりに考えたのだ。原発に賛成でも反対でもいいから、自信をもってその理由を言えるようになること。そのために考え続けることの大事さを、この映画は思い出させてくれた。

災害があるたびに、残された人たちが何かを学びますように。残された私が何かを学びますように。

福島に住んでたらこんなこともある

借りている駐車場の大家さんから先週、めずらしく電話があった。片隅に埋めてあった除染土を掘り起こすので、隣の車を私の車にギリギリ寄せて停めさせてほしい、ということだった。それは構わないのだが、へー、除染土埋まってたんだ。

このあたり、福島駅の周辺も原発事故直後は一時的にけっこう放射線量が高かったと聞く。が、大家さんによればそれも一様ではなく、線路の向こう側の公共施設のあたりは高く、こちら側の地区は比較的低かったのだそうである。それでもやはり、この辺のビルはみな外壁を高圧洗浄し、駐車場や一軒家の庭は表土を剥ぐという「除染」をしたそうだ。

それで出た除染土(環境省的には「除去土壌等」という)を家々の裏庭の隅にビニールで覆って保管してあったことは、私も福島市に引っ越した4年前はよく目にしたので知っていた。が、そういうスペースがない場合は、こうやって敷地の地下に埋蔵保管してたのね。地上保管されてたやつは、そういえばいつの間にかなくなってるような気がするが、地下の掘り起こしは今ごろなんだ。

県内各地でこういう除染が行われ、それで出た除染土は、第一原発の近くに作っている「中間貯蔵施設」というところへ2015年度から搬入が始まった。会津地方などもっとも遠いところから運び出し始めて、これまでに福島市内の除染土も4割方は搬出が終わっているようだ(環境省サイト:福島市の搬出状況)。といっても、今回私の借りてる駐車場から運び出された除染土は、直接中間貯蔵施設に行くわけではない。まずは福島市内の仮置き場に持っていく。市に確認したところ、そこから令和3年度末(=2022年3月末、つまり2年後)までに搬出される予定なんだそうだ。仮置き場というのは地区ごとに作る前提らしいが、私の住む地区に関してはつい最近まで仮置き場の場所が決まらなかったというのが、おそらく掘り起こしが遅くなった原因(の一つ)なのだろう。

で、今日がその大家さんが言っていた掘り起こしの日だった。作業自体はすぐ終わったようで、昼ごろ確定申告しに税務署へ行くため車を出す際は、何も問題はなかった。車で10分の税務署。1年ぶりだ。その隣はまた別の除染土仮置き場になっていて、黒いフレコンパックの山が否応なく目に入る。ここのはまだ搬出されてないんだな。ここは福島市街の真ん中、信夫山の麓、反対どなりは公園だ。最初見たときは異様な光景だと思った。数年たてば見慣れてはくるが、やはりコレが残っているうちは完全に「平常時」に戻ったとは言えないような気がする。

仕事で浪江町方面へ行くときは国道114号という山越え道を通るのだが、ここは中間貯蔵施設への搬入が本格化した一昨年くらいからいつも、「除去土壌等運搬車両」の目印を付けたダンプがたくさん走っている。車線のない道をすれ違うのに最初は多少怖かったが、私の知る限り乱暴な運転の人はいないし、可能な限り道も譲ってくれる。何よりこの運転手さんたちがいなければ除染土搬出はできないのだから、個人的にはむしろ礼を言いたい気持ちである。が、やはりこれは一種「異常な」道路状況なんじゃないかと思う。

福島県はいまだに「復興」という言葉をよく使う。でも、何がどうなったら「復興した」と言えるのか?あまりその辺の突っ込んだ議論は聞かない。まずは県内の除染土フレコンパックの山がぜんぶ中間貯蔵施設に運び込まれて、生活道を除染土運搬ダンプが通らなくなって・・・そこで少なくとも浜通り地方以外の福島県の「復興プロセス」はひとつの区切りを迎えるとは思うが、それで終わりというわけでもない。

その浜通りでは来月、いよいよJR常磐線が全線再開通する。双葉町でも来月初めて一部の避難指示が解除される。一歩ずつ進む。でも、帰還困難区域はまだまだ残る。旧避難区域の居住人口はまだまだ戻らない。自治体はまだまだ通常の課税に戻れない。原発事故の後始末はまだまだ終わらない。

今日うちの前で、掘り出したボロボロの土嚢を淡々と軽トラックに積み込む作業員を見ていて、あらためて難儀だなあと思った。もちろん、私はそれを理由にこの地を去る気はまったくないので、life in fukushimaはこれからも淡々と続きます。

(写真:除染土を掘り起こして埋め戻した後の駐車場と、全然関係ないけど昨日立ち寄った日帰り温泉施設に飾られていた吊るし雛)

なぜ福島第一は「福島」第一なのか

先月から福島市の観光案内所でパートをしているのだが、先日、外国人旅行者から言われたこと。

「なぜ、福島第一原発は『福島』第一原発というのだ?」

なぜって、そりゃ福島県にあるからですよ。

と言ってみてからハタと気づいた。他の原発を考えてみると、泊原発(北海道)、女川原発(宮城県)、柏崎刈羽原発(新潟県)、浜岡原発(静岡県)、川内原発(鹿児島県)、福井県なんて4つもあるが、第一、第二、第三、第四でなく、敦賀、美浜、大飯、高浜とみんな立地市町村の固有名詞だ。

「福島」と同じく都道府県名を冠しているのは、松江市にある「島根原発」だけのようである。

その旅行者が言いたかったのは、福島という名前が付いていたがために、あの事故の記憶と「風評」は永遠に福島県全体と結びつけられちゃうぜ、ということらしい。

なるほど、そうかもしれない。もしも第一原発が柏崎刈羽式に「双葉大熊原発」、第二が「楢葉富岡原発」とか命名されていたら、カタカナの「フクシマ」は生まれていなかったんだろうか。

なぜそう命名されなかったのか、ちょっとググったくらいでは出てこなかったので、だれか知ってる人がいたら教えてほしい。

なんにしても、新しいことを始めると小さくても新しい発見があるのがよい。ボケ防止には必須である。

(写真は2017年1月に現地で撮った看板)