9周年回顧

世の中テレワークとやらが流行りだが、もともと「家で仕事」が基本の私は大して違和感を感じていない。ただ、仕事が端境期で時間がたっぷりある。そこで唐突だが、今回は思い出話をしようと思う。

4年くらい前のこと。当時、原発事故で全町避難中だった自治体の手伝いをしていたとき、役場にはいろんな電話がかかってきた。その中には、町民が避難している先の県内自治体住民からの「お前らはけしからん」という電話もあった。

一時期、毎日のようにかけてくる年配の女性がいた。「あんたら住民税も払っていないくせにゴミ出しがなってない。あんたら高速道路も医療費もタダだから、あんたらのおかげで病院は大混雑で迷惑だ。あんたら賠償金で御殿を建てたと思ったらこんどは高級車かい。(熊本地震があったときは)あの人たちはあんなに大変な思いをしてるのに賠償金なんか一円ももらってないんだ、あんたらもらった金を熊本の被災者へ送れ。」等々。

こちらはひたすら、はい、はい、と聞き続けるしかない。最初はただ難儀だなあと思っていたが、そのうち複雑な気分になった。その女性はときに1時間以上もそうやって思いのたけをぶちまけると、最後には我に帰って言うのだ。

「どうしてこんなことになっちゃったのかねえ・・・」

続けて、「あんたたちも大変だね、がんばりなさいよ」などと言うときもあった。実際はその女性も「被害者」なのだ。気の毒だと思った。

同じ福島県内でも、さらに同じ自治体の中でも、放射性物質による汚染度合によってナントカ区域・ナントカ区域というものに分けられた。そもそも汚染の濃淡が行政区の境とぴったり合致しているわけもないのに、その線引きに従って賠償金が出るかどうか、出る場合もその多寡が決まった。道路一本挟んでという状態がたくさん生まれた。

おカネが絡むと変わってしまう人は多い。その女性の気持ちもよくわかる。こんなことがなければ、おそらくクレーム電話を長々とかけてくるような人ではなかったのだろうと思う。

同じころ、町民に対して国から避難指示を解除したいという説明をする、一連の「住民説明会」というものが行われ、私も役場職員として何回か出席した。といっても私はもちろん会場設営スタッフの一人であって、檀上で説明する側の立場ではないのだが、あれほど「いたたまれない場所」を経験したことはなかった。

意見を言う多くの人が解除に反対だった。反対意見というよりは怒りの表現だった。受け答えはどこまでもかみ合わなかった。ほんとうは放射線量が心配だからではない、解除されて避難区域でなくなったら賠償金がもらえなくなるから反対なんだろう、という揶揄も世間にはあった。実際、解除の是非を話し合うはずの場で、発言は賠償金にも及ぶことが少なくなかった。「どうして●●町と●●町とでは同じ●●なのに賠償金の扱いが違うのか」等々。

やっぱりカネなのか。

いや違う。ほんとうはカネの話なんかではない。元に戻せと言ってもどうやっても元に戻せないことはわかっている切なさ。結局カネでしか落とし前のつけられない悔しさ、無念さの発露だったのだと思う。

とはいえそのカネ自身がまた、一種の麻薬になり得る。あれから9年。賠償金も補助金も税の減免もそうだ。それがなければやっていけない状態がそれほど長期間続けば、「中毒」になってしまったとしてどうして責められよう。

もちろんそうならず、想像を絶する努力で自ら道を切り開き、がんばっている人たちは少なくない。そこに「希望」を見出し、彼らを応援すればいい。実際、私はそういう人たちの話をたくさん書く機会をもらってきた。マスコミの「3.11から9周年」特集は新型コロナのせいもあって至極控えめに見えたが、そういう「希望」を扱う記事も多少は全国の人の目に触れたはずだ。

が、一歩ひいてマクロで眺めるとどうか。いまだに帰還困難区域が残っているという現実だけからいっても「福島の復興は道半ば」なのは客観的事実だ。けれども、おカネが途切れると困るから「まだまだ復興してません」と言い続けなければならないとすればアリ地獄である。少し前、同じ首都圏からの移住組ライターのYさんとこの話題を話していて、「ほんとうは復興なんてしないほうがいいんだ」と口走った自分に、自分で驚いた。

なんでそんなことが口をついたのか。その理由の少なくとも一部は、おそらく、私自身も「復興予算」という名目で降りてくるお金のおこぼれを預かる仕事をしているからだ。そういう仕事に対するとき、ある種の使命感に加えて、私が「フクシマという特殊な環境」の内にいることを自分の「付加価値」の一部にしようとしていることは否めない。だから「特殊」でなくなると困るのである。旧避難区域から70キロ以上離れた県都・福島市に住むお気楽ライター稼業の私が、こうなのだ。

こんなことは書いてはいけないことだった。書いてもしかたないからだ。福島にはこんなフクザツな問題がある、ということを知ってもらったとして、だからそれが何につながるというのだ。

同じ社会問題でも、たとえば児童虐待とかプラスチックごみとかの話であれば、それについて発信し社会的関心を高めることで政治イシューになり、やがてなんらかの政策につながるかもしれない。あるいはそうした問題について個人の意識が高まり、行動の変化が課題解決につながるかもしれない。

だけれども、この、おカネによっておかしなことになっていく福島の(一部の)問題というのは、当事者以外が知ったところで「大変ねえ」としか言いようがなかろう。既にこの地の「問題解決」のために、国のおカネはこれ以上ないほど注ぎ込まれている。日本の他の地域がこの現状を他山の石として学ぶことがあるとすれば、いったい何なのだ。これほど多くの人を苦しめてきた事象から得られる教訓は?同じことを繰り返さないための教訓は?

どうしてこんなことなっちゃったのか・・・

繰り返す以外に今の私に答えはない。新型コロナ禍の裏で、数々の問題は静かに進行していく。

フクシマフィフティ

映画「Fukushima 50」を観てきた。

いろんな見方があろう。福島県民と県外の人、同じ県内でも浜通りと中通りの人、避難区域にいた人とそうでない人。受け取り方、感じ方は違うと思う。でもやはり、この映画が世に出た意味はあると思うし、多くの人に観てほしいと感じた。

映画の冒頭に「これは事実に基づいた物語です」という断りが入るとおり、ノンフィクションとはいっても、当たり前だが一定の脚色は施されている。ほんとうに事実を知る人たちにとっては、一種の気持ち悪さを感じるところもあるかもしれない。私が浪江町役場で広報の手伝いをしていたとき、大震災直後の浪江町を題材にした、ある芝居の脚本の確認依頼を受けたことがあった。あの日あの時浪江にいたわけではない私に真偽の判断はできないので、当時を知る周りの職員に聞くと、やはり細かいセッティングが「事実と違う」部分は多かった。しかし、突っ込み始めればきりがない。このときも「事実に基づく物語」という一文を入れてもらうことで決着した。

映画も芝居も、報告書や記録誌とは違う。その意図は別のところにある。私が感じたこの映画の意図は、あの日あの時あなた自身は何処にいて、何をして何を考えたか、もう一度思い出せということだった。

9年前の3月11日金曜日。私は東京・南麻布にある、テンプル大学という米国大学の日本校の広報をやっていた。大学といっても普通のオフィスビルに入居しており、私のオフィスは4階だった。東京もたしか震度5強だったか、今までと違う大きさの揺れにあわてて階段を降り、道路に出た。今でこそ「あわてて外に出ず、まず机の下」が常識なのだろうが、そんな心の準備はなかった。当時は直前にニュージーランドで地震が起き、建物倒壊のシーンが記憶に新しかったこともある。

このとき、詳細は覚えていないが私はおそらく、真っ先にオフィスを飛び出したのだ。当時、私はスタッフ5人を持つマネージャーだった。日本の大学と違って春休みではなかったので、同じフロアに学生たちもたくさんいた。隣は学長室だ。なのに、気が動転した私はスタッフや学生を先に逃がすでもなく、どんな行動をとるかを学長と話すでもなく、我先に階段を駆け下りたような気がする。

結果的に建物はまったく無事で、スタッフも学生もケガ人などは出ていない。が、しばらくして「自分は曲りなりにも上長のくせに真っ先に逃げた」ということに気づいたときの、あの恥ずかしさ。しょせん自分はこの程度の人間なんだという気づきは、どれほど受け入れ難くても真実だった。

こんな話を書いても恥さらしなだけだが、映画Fukushima 50はあらためてそれを思い出させてくれたし、それにフタをしてきた自分にもう一度向き合う機会をくれた。向き合って、受け入れられれば、先に進める。

震災後の2週間ほどは、文字通り映画の中にいるような感覚だった。学生も教職員たちも外国人が多い。アメリカだけでなく多国籍だ。みな自国大使館の飛ばすチャーター機で、あるいは自力で、どんどん西へ、国外へ出ていった。木曜日にはテンプル大の米国本校がチャーター機を飛ばし、残った外国人学生を逃がした。同時に、日本人学生向けには関西方面へ向かうバスがチャーターされた。

混乱のさなか、アメリカ人の学長と日本人の副学長、そして私と3人で学長室に集まり、もうこれで終わりかもしれない、といって涙したのを覚えている。もちろん、Fukushima 50 の同じセリフとは意味も重さも違うのだが、そういう気分だったことは確かだ。

そして計画停電。私は自宅も職場も23区内だったから免れたが、川崎の実家に帰ったとき一度だけ、3時間の停電を経験した。午後3時、いっせいに電気が消える。ぜんぶ信号の消えた道の不気味さ。たかが3時間だが、あれを体験できたことを今となっては有難いとさえ思う。

あのとき、考えたのだ。私たちは電気がどれほど必要なのか。その必要な電気を賄うため原発は本当に必要なのか。知らないなりに考えたのだ。原発に賛成でも反対でもいいから、自信をもってその理由を言えるようになること。そのために考え続けることの大事さを、この映画は思い出させてくれた。

災害があるたびに、残された人たちが何かを学びますように。残された私が何かを学びますように。

福島に住んでたらこんなこともある

借りている駐車場の大家さんから先週、めずらしく電話があった。片隅に埋めてあった除染土を掘り起こすので、隣の車を私の車にギリギリ寄せて停めさせてほしい、ということだった。それは構わないのだが、へー、除染土埋まってたんだ。

このあたり、福島駅の周辺も原発事故直後は一時的にけっこう放射線量が高かったと聞く。が、大家さんによればそれも一様ではなく、線路の向こう側の公共施設のあたりは高く、こちら側の地区は比較的低かったのだそうである。それでもやはり、この辺のビルはみな外壁を高圧洗浄し、駐車場や一軒家の庭は表土を剥ぐという「除染」をしたそうだ。

それで出た除染土(環境省的には「除去土壌等」という)を家々の裏庭の隅にビニールで覆って保管してあったことは、私も福島市に引っ越した4年前はよく目にしたので知っていた。が、そういうスペースがない場合は、こうやって敷地の地下に埋蔵保管してたのね。地上保管されてたやつは、そういえばいつの間にかなくなってるような気がするが、地下の掘り起こしは今ごろなんだ。

県内各地でこういう除染が行われ、それで出た除染土は、第一原発の近くに作っている「中間貯蔵施設」というところへ2015年度から搬入が始まった。会津地方などもっとも遠いところから運び出し始めて、これまでに福島市内の除染土も4割方は搬出が終わっているようだ(環境省サイト:福島市の搬出状況)。といっても、今回私の借りてる駐車場から運び出された除染土は、直接中間貯蔵施設に行くわけではない。まずは福島市内の仮置き場に持っていく。市に確認したところ、そこから令和3年度末(=2022年3月末、つまり2年後)までに搬出される予定なんだそうだ。仮置き場というのは地区ごとに作る前提らしいが、この地区に関してはつい最近まで仮置き場の場所が決まらなかったというのが、おそらく掘り起こしが遅くなった原因(の一つ)なのだろう。

で、今日がその大家さんが言っていた掘り起こしの日だった。作業自体はすぐ終わったようで、昼ごろ確定申告しに税務署へ行くため車を出す際は、何も問題はなかった。車で10分の税務署。1年ぶりだ。その隣はまた別の除染土仮置き場になっていて、黒いフレコンパックの山が否応なく目に入る。ここはまだ搬出されてないんだな。福島市街の真ん中、信夫山の麓、反対どなりは公園だ。最初見たときは異様な光景だと思った。数年たてば見慣れてはくるが、やはりコレが残っているうちは完全に「平常時」に戻ったとは言えないような気がする。

仕事で浪江町方面へ行くときは国道114号という山越え道を通るのだが、ここは中間貯蔵施設への搬入が本格化した一昨年くらいからいつも、「除去土壌等運搬車両」の目印を付けたダンプがたくさん走っている。車線のない道をすれ違うのに最初は多少怖かったが、私の知る限り乱暴な運転の人はいないし、可能な限り道も譲ってくれる。何よりこの運転手さんたちがいなければ除染土搬出はできないのだから、個人的にはむしろ礼を言いたい気持ちである。が、やはりこれは一種「異常な」道路状況なんじゃないかと思う。

福島県はいまだに「復興」という言葉をよく使う。でも、何がどうなったら「復興した」と言えるのか?あまりその辺の突っ込んだ議論は聞かない。まずは県内の除染土フレコンパックの山がぜんぶ中間貯蔵施設に運び込まれて、生活道を除染土運搬ダンプが通らなくなって・・・そこで少なくとも浜通り地方以外の福島県の「復興プロセス」はひとつの区切りを迎えるとは思うが、それで終わりというわけでもない。

その浜通りでは来月、いよいよJR常磐線が全線再開通する。双葉町でも来月初めて一部の避難指示が解除される。一歩ずつ進む。でも、帰還困難区域はまだまだ残る。旧避難区域の居住人口はまだまだ戻らない。自治体はまだまだ通常の課税に戻れない。原発事故の後始末はまだまだ終わらない。

今日うちの前で、掘り出したボロボロの土嚢を淡々と軽トラックに積み込む作業員を見ていて、あらためて難儀だなあと思った。もちろん、私はそれを理由にこの地を去る気はまったくないので、life in fukushimaはこれからも淡々と続きます。

(写真:除染土を掘り起こして埋め戻した後の駐車場と、全然関係ないけど昨日立ち寄った日帰り温泉施設に飾られていた吊るし雛)

なぜ福島第一は「福島」第一なのか

先月から福島市の観光案内所でパートをしているのだが、先日、外国人旅行者から言われたこと。

「なぜ、福島第一原発は『福島』第一原発というのだ?」

なぜって、そりゃ福島県にあるからですよ。

と言ってみてからハタと気づいた。他の原発を考えてみると、泊原発(北海道)、女川原発(宮城県)、柏崎刈羽原発(新潟県)、浜岡原発(静岡県)、川内原発(鹿児島県)、福井県なんて4つもあるが、第一、第二、第三、第四でなく、敦賀、美浜、大飯、高浜とみんな立地市町村の固有名詞だ。

「福島」と同じく都道府県名を冠しているのは、松江市にある「島根原発」だけのようである。

その旅行者が言いたかったのは、福島という名前が付いていたがために、あの事故の記憶と「風評」は永遠に福島県全体と結びつけられちゃうぜ、ということらしい。

なるほど、そうかもしれない。もしも第一原発が柏崎刈羽式に「双葉大熊原発」、第二が「楢葉富岡原発」とか命名されていたら、カタカナの「フクシマ」は生まれていなかったんだろうか。

なぜそう命名されなかったのか、ちょっとググったくらいでは出てこなかったので、だれか知ってる人がいたら教えてほしい。

なんにしても、新しいことを始めると小さくても新しい発見があるのがよい。ボケ防止には必須である。

(写真は2017年1月に現地で撮った看板)

ひろしまとふくしま

先々週に行った広島旅行の話を書く。

広島は20年くらい前に仕事でいちど訪れたことがある。そのときは原爆ドームをチラ見しただけで観光する余裕はなかったが、今回は2時間かけて原爆資料館を見学し、翌日は厳島神社のある宮島でほぼ一日過ごした。どちらも世界遺産だ。

原爆資料館は圧巻の内容だったが、東日本大震災被災地の人なら、原爆投下後の焼け野原と津波の翌朝の光景をダブらせる人は多いのではなかろうか。そして、福島に住む者としては「被ばく」という言葉にも敏感にならざるを得ない。原子爆弾による被爆と、原発事故の放射性物質による被曝はまったく違う次元のものだが、世の中一般、なんとなく一緒くたのイメージになっているような気がする。どちらも繰り返してはいけないという点においては同じなのだが。福島県双葉郡にもできる東日本大震災・原子力災害アーカイブ施設はどんな内容になるんだろう。

ところで、東京や京都だけでなく日本全国で外国人観光客が激増しているのは知っていたが、広島も例外ではなかった。へぇと思ったのは、欧米系が多いことだ。私が原爆資料館を訪れた時は、見学者の9割方が外国人、そのうち7割くらいは東アジア以外の人々だったと思う。宮島には日本人のグループも多かったが、それと同じくらいの外国人もいて賑わっていた。

広島市内に2泊の後、そこからローカル線で1時間半余りの尾道にも1泊。お目当ての絶景ルート「しまなみ海道」の一部を走った。走ったといっても、自動車ではなく自転車である。ここでも、ドライブではなくサイクリングしているのはやはり外国人が多かった。「サイクリストの聖地」を謳うだけあって、ルートも各種サービスもすばらしく整備されている。

わが福島市もオリンピックを控えてインバウンド増加を意識しているようだけれども、残念ながら実感として市内の外国人客数は文字通り桁違いに少ない。ま、市内に2つも世界遺産を持つ広島市と比べてがっかりしてもナンセンスだから、福島市は独自のニッチを行くしかなかろう。

福島市の売りといえば花と温泉と果物と磐梯吾妻スカイライン(吾妻山と浄土平)だが、はっきり言って「美しい自然」は別に珍しいものではない。花も果物もシーズンは限られるし、食べものには好き嫌いがある。スカイラインだって冬季は閉鎖だ。それに、日本人は人間なら誰でも温泉好きと思っているが、そもそも湯船に入る習慣のない国も多い。

ということで、マスを相手ではなくリピータ―獲得狙いのほうが正しい気がするのだが、いかがかしらん。噛むほどに味わい深い地味なふくしま。外国人の前に日本人も来てもらわないとね。

ももりん、がんばろね