自分なりに考えてはみたけれど

(前回のつづき)福島県に住んでもう9年近くなるというのに、原発の是非についてまだ頭が整理できていないというのも情けない話ではあるので、とりあえず素人の私なりにいま思うところを書いておく。

△双葉町と浪江町に建設中の復興祈念公園。双葉町は先日8月30日午前0時、ついに一部で避難指示が解除された。全町避難から実に11年5か月ぶり。

いま全国でほとんど止まっている原発を再稼働することへの不安には、二種類あると思う。一つは、また事故が起きたときどうする問題。もう一つは、事故が起きなくても元来原発が持ってる使用済み核燃料どうする問題。

一つ目の、また事故がおきたら、というのはもちろん想定しておかなけばならない。安全基準を高めたからもう大丈夫、どんな地震や津波が来てもイチエフのような事故は起きない、と言い切ってしまったら、また安全神話に逆戻りだ。ただ、どれだけお金をかけてどれだけ対策しても事故の可能性を完全にゼロにはできないわけで、それは原発だけでなく何でもそうだが、だからこそ施設面の安全対策は常識的な範囲に収め(そこに手抜きはないという前提で)、もしも事故がおきたときのインパクトを最小限にする方策に注力すべきだと思う。

数年前、津波被害が大きかった気仙沼で取材した被災者の方が「どれだけ堤防を高くしてもそれを乗り越える津波が来るリスクはゼロにできないのだから、それよりも避難道路を拡幅するなどの方に予算を使うべきだ」と主張していて、納得したのを覚えている。

自然災害による原発事故の場合(戦争とか原因だと日本全体がヤバくなっているだろうからここではおいておく)、どのくらいの放射性物質が拡散するのかによって逃げる範囲が変わってくるところが難しいけども、とりあえず2011年のイチエフ事故のケースで言えば、津波と違って同じ自治体内での避難では済まず、自治体まるごと別の自治体へ長期間避難しなきゃいけない可能性が高い。そういう場合に備えた制度面の整備(自治体間協定とか二重住民票とか)は必須だと思われる。

そしてなにより、汚染された地域をどうするか、また住めるようにするのか諦めるのか。この判断にかかる膨大なコストを想定する必要がある。その際、賠償金や除染費用、復興名目予算など目に見える金額だけで比較するなら、それでも原発止めて化石燃料輸入するコストのほうが高い、という計算も成立するのかもしれない。でも、その背後にある人々の健康不安、心理的軋轢とコミュニティの分断、それらをつなぎ合わせようとする努力、そこにかかっている有形無形のリソース、同時に発生しているはずの機会ロス。そういうものをぜんぶひっくるめて金額換算できたとしたら、もう天文学的数字になるのではなかろうか。(健康不安が「不安」で済まず、事故で漏れ出た放射線による被ばくと何らかの疾病との因果関係が立証される事態になれば、「コスト」はもっと明確になるんだろう。ちなみに福島県の「震災関連死」は他県より突出して高い2333人。

もう一度、同じ規模の事故がおきて、同じような避難が発生して、同じような賠償をして、同じような避難指示解除の方針でやっていくなら、日本は壊れるんじゃないかと思う。

△私が2017年3月末までお世話になった、浪江町役場の二本松事務所。先月、久しぶりに前を通ったらこうなっていた。役場はとうに浪江町内に戻り、復興は進んでいるが、思うように人口が戻っていないのは前回投稿の通り。

敢えて言うが、もしも日本が、国民の住む場所を国が指定したり、強制的に移住させたりできる国だったら、そして、汚染された地域を国が強制的に買い上げて永遠立ち入り禁止にできるような国だったら、少なくとも物理面での物事はもっとシンプルだと思われる。いや、心理的にだって、最初から「あなたは二度とここには戻れません、他所で暮らしてください」とハッキリ言われたほうが、そのときは胸がえぐられても、長い目で見れば、真綿で徐々に首を絞められるような苦しみよりはマシではなかろうか。次の原発事故に備えるなら、日本はそういう国になるしかない。

でも、なれますかね? なれなくても、「そうはいっても、もうああいう事故は起きないでしょう」といって安全神話に逆戻りすることはできる。たぶんそうなる。

だとしても、二つ目の問題、いわゆるトイレの無いマンション問題は残る。でもトイレに行きたくなるのはまだ先で、いま目の前の子どもは食欲旺盛でお腹が空いている。この子に食べさせ続けるなら、いずれトイレに行きたくなる前に必ずトイレを作る、という確約をしてほしいものだが、これもやっぱり、手上げ方式ではなく、国が強制的に土地を接収して処分場をつくれるような強権国家にならないと無理じゃなかろうか。法律で期限が決まっているイチエフ事故の除染廃棄物の処分場ですら、まだ見通しが立っていないのである。

コロナの外出制限も医療機関への患者受け入れも原則「お願い」でどどまる国である。それはこの国の良いところでもある。原発を動かすなら、事故の可能性はゼロにはできないしゼロにする必要もない、でも起きたときのインパクトを最少化するためにどう備えるか、それを真剣に議論するなら、そういう日本国の「良さ」も再考せねばならないのではないか。その議論を避けて通りたいなら、やはり、少なくとも既存タイプの原発は動かさないでいるのが賢明だとは思う。

でも人間やっぱりお腹はすくし、今日明日電気が止まったら困るから、自分の生きてる間は「そういう事態」にならないように神さまにお祈りし、そのうち新技術が開発されてこういう問題ぜんぶ解決するだろう、という根拠のない楽天主義を採用して思考停止していたほうが楽なので、そうしようかな!

なくなったのに気づかなかった…1年も

テレビはもっぱらNHK派の私。別に主義主張があるわけではなく単に民放のCMがうざいから、というのが最大の理由である。

ステイホームが始まる前から自宅仕事が基本なので、夕方は6時15分からのローカル局ニュース以降、だいたいつけっぱなし。晩酌しながら7時の全国ニュースを見て、読み切れてない新聞など読みながら家族に乾杯とかちこちゃんに叱られるとかを見て、スマホをいじりながら9時からのニュースを見て、という具合である。

5月の連休前くらいのことだったか、そのローカル福島局ニュースを見ていて「あれ?」と思った。なんか違う。4月の異動でキャスターが(さらに不慣れな新人に)変わったとかじゃない。

そうだ、天気予報と一緒に必ずやっていた「それでは今日の各地の放射線量です」のコーナーが、無くなってるではないか!

このコーナー、8年前に福島県に越してきた当初はすごく新鮮で、「私は原発事故被災地の復興支援に来たんだ!」と妙な高揚感を覚えたような気がする。県全体に関しては代表地点15カ所くらい、原発に近い双葉郡は8町村ごとに、当日観測された空間線量の最大値と最小値が表示され、そのあとイチエフの排水口付近の海水の放射線量も毎日放送されてた。

しばらくすると慣れてきて、それこそ天気予報と同じような感覚で聞き流すようになってはいたが、それでもたまに、お世話になった浪江町の最大線量まだ5.8かあ、などと確認できる機会ではあった。

はて、いつから放送がなくなったんだろうと思い、NHKのサイトで調べても、ネットでいろいろ検索キーワード試してもなかなか情報が出てこない。なので、NHKの問合せフォームから問い合わせた。そしたら中二日ほどで返事がきて結構びっくりした。

「NHK福島放送局では、2011年より県内の放射線情報の放送を続けて参りましたが、当初は、変動する放射線量の値への関心も高く、生活に密着した情報としてご覧いただいていましたが、帰還困難区域などの一部を除いて大幅に減衰した現在では、放送を続けることについて「かえって危険な場所という印象を与える」といった声も寄せられていました。
依然として不安を感じるという声もあることは承知しておりますが、引き続きホームページとデータ放送でお伝えすることとし、テレビとラジオでの放送は、東日本大震災と原発事故の発生から10年を機に終了することが適切と判断し、2021年3月29日の放送から取り扱いは終了しました。これからもNHKの放送をご視聴くださいますようお願いいたします。NHK福島放送局/NHKふれあいセンター(放送)」

はて。2021年3月末には終わっていたということは、もう1年以上やってなかったわけだ。なんで最近まで気づかなかったんだろう。それほど私自身の関心が薄くなっていたことに加え、さらにこの2年ほど「それでは今日の新型コロナウィルス感染者数です」というのが常設コーナーになっているから、私の脳内でなんとなくすり替わってしまったのかもしれない。

そういえば3年くらい前だったか、県内各地に設置されてる空間放射線量モニタリングポスト約3千台の大半を撤去するという話もあった。でも、私の生活圏内にあって知ってる2台(福島駅西口と県立美術館の庭)はまだ存在している。調べたら、反対が多くて原子力規制委員会が「撤去を撤回」したらしい。

ちなみに、よくその横を通る駅前のモニタリングポストは、福島市に越してきた当初(約6年前)は0.2台(マイクロシーベルト/毎時)だったと記憶するが、いまではだいたい0.1台だ。県外の人にとっては「なんだっけ、それ?」な話だと思うが、放射線量というのは確実に自然減衰するものだということ。

昨年3月、事故から10年ということでいろんな「一区切り」があった。でも10はただの数字だ。私自身、双葉郡から離れた福島市に暮らしていると、イチエフのことや避難区域のことは日頃ほとんど念頭に上らない。だけど、イチエフの処理水の海洋放出、一度は帰還困難とされた区域の将来、化石燃料不足のなかで原発再稼働の是非…… ホントはまだまだ考えるべきことはたくさんある。

つぎつぎ新しい危機の到来でどんどん記憶が上書きされていくが、たまに外付けメモリからフクシマの情報も取り出さないといけないと思う今日このごろ。

▲福島市内のアジサイの名所、土合舘公園にて。ここにもモニタリングポストあり。

これからの天災は忘れる前にやってくる

少し時間が経ってしまったが、先月13日(土)の福島県沖地震の話。当日、報道を聞いて心配した友人からたくさんメッセージをもらったが、私はたまたまその週末は川崎の実家に帰っていた。木造築40年超の我が実家もけっこう揺れて、急いでテレビをつけたら福島が震度6という。私も福島の友人たちのことを心配して一晩スマホにかじりついたが、幸い知っている範囲にケガ人も大きな被害もなかったようで一安心した。

私自身は日曜の夕方に福島に戻るはずだったが東北新幹線がストップ。翌日には復旧するだろうとタカをくくってしばらく静観していたら、再開まで10日以上かかるという。あわてて数年ぶりの高速バスを予約しようとして驚いた。福島交通/JRバスの「あぶくま号」が、以前の半分以下の1日2本に減便されているではないか!コロナの影響がここまで来ているとは知らなかった・・・それほど利用客が減っていたのか。ショックだった。

実は、「あぶくま号」の他にも別の会社が運行する新宿~福島~仙台の直行バスが、夜行も含めて1日数本走っていることを後から知ったのだが、それまで私の頭には高速バスといえば「あぶくま号」しかなかった。東京からの移住当初、二本松市に住んでいた頃に高速バスを利用していて、二本松バスストップという停留所があるのは「あぶくま号」だけだったのだ。今の私は福島駅近くに住んでいるから他社の直行バスでも良かったのだが、(東京~福島の途中にある)須賀川や郡山、二本松で乗降したい人はやはり「あぶくま号」が無くなったら困るのではなかろうか。

それに加えて先日発見して大きなショックを受けたのは、JR「おトクなきっぷ」の一部の廃止である。私がしばしば利用する福島⇔仙台の新幹線Wきっぷなどは特に割引率が高く、かなり助かっていたのだが・・・ これも間接的にはコロナのせいなのか・・・

さて、私は地震から4日後、「あぶくま号」午前便のチケットを無事入手して、5時間かけて福島に戻ってくることができた。強烈な揺れで窓が外れたとか割れた食器が散乱したとかいう友人の話を聞いていたので、マンションのドアを開けるときは恐る恐るだった。ところが、幸い室内は拍子抜けするくらいほとんど何事も起こっていなかった。もともと背の高い家具等は置いていないが、絶対に落ちていると思った卓上の植木鉢がそのまま。棚上のスプレー缶までそのままだったのにはびっくりだった。この話をすると、おたくは免震構造ですかと聞かれるがそういう訳ではない。普通の耐震である。揺れの性質や方向的にラッキーだっただけだと思う。

今回の地震は死者が出なかったためか全国はもちろん県内ニュースでも、もうその後の報道はほとんどされていない。しかし場所によっては、倒壊こそ免れたものの深刻な被害を受けた建物も実は少なくないようだ。知り合いに見せてもらった写真には、バツの字に大きな亀裂が入った壁からコンクリがこぼれ落ちているマンションや、梁だか柱だかが折れて落ちている室内が写っていた。これでは本当に怖くて住めないだろう。常磐道の一部や二本松市内では大規模な土砂崩れもあった。本当に死者が出なかったのは幸運であり、津波が来なかったことを天に感謝するしかない。

10年前も、もし津波さえ来ていなかったら犠牲者の数は桁違いに少なかったはずだし(東日本大震災の死因の9割は溺死)、原発事故も起きていなかったかもしれない。起きていなければ避難生活のストレスなどによる「震災関連死」も起きずに済んだ。それでも溺死以外の死亡が千人以上いるのだから大災害であったことには間違いないが、後世にこれほどまでのインパクトを残すことはなかったのではないか。

まあ、今さらそんな「たられば」を言ってみてもしかたない。先月の震度6強も10年前の余震だというのだから、東北ではこれからも「その後」はまだまだ続く。福島ではそもそも原発事故そのものが終わっていない。

再びあの規模の(あるいはそれを超える)地震と津波が来ても、私たちはもう想定外とは言えないが、こんどは新型コロナという想定外が日本中・世界中に起こってしまった。結局、すべてを想定することなどできないけれども、それでも起きてしまったことから何かを学び、次に生かさなければ、犠牲になった人たちは浮かばれない。「風化」=残された人たちが何も学ばず同じ災禍が繰り返されること。だとすれば、私は何を残しただろう、というより、私は何を学んだだろう。心もとないが自らに問い続けねばと思う。(写真=福島県双葉町に昨年開館した伝承館)

9周年回顧

世の中テレワークとやらが流行りだが、もともと「家で仕事」が基本の私は大して違和感を感じていない。ただ、仕事が端境期で時間がたっぷりある。そこで唐突だが、今回は思い出話をしようと思う。

4年くらい前のこと。当時、原発事故で全町避難中だった自治体に応援職員として勤めていたとき、役場にはいろんな電話がかかってきた。その中には、町民が避難している先の県内自治体住民からの「お前らはけしからん」という電話もあった。

一時期、毎日のようにかけてくる年配の女性がいた。「あんたら住民税も払っていないくせにゴミ出しがなってない。あんたら高速道路も医療費もタダだから、あんたらのおかげで病院は大混雑で迷惑だ。あんたら賠償金で御殿を建てたと思ったらこんどは高級車かい。」 熊本地震があったときは「あの人たちはあんなに大変な思いをしてるのに賠償金なんか一円ももらってないんだ、あんたらもらった金を熊本の被災者へ送れ。」等々。

こちらはひたすら、はい、はい、と聞き続けるしかない。最初はただ難儀だなあと思っていたが、そのうち複雑な気分になった。その女性はときに1時間以上もそうやって思いのたけをぶちまけると、最後には我に帰って言うのだ。

「どうしてこんなことになっちゃったのかねえ・・・」

続けて、「あんたたちも大変だね、がんばりなさいよ」などと言うときもあった。実際はその女性も「被害者」なのだ。気の毒だと思った。

同じ福島県内でも、さらに同じ自治体の中でも、放射性物質による汚染度合によってナントカ区域・ナントカ区域というものに分けられた。そもそも汚染の濃淡が行政区の境とぴったり合致しているわけもないのに、その線引きに従って賠償金が出るかどうか、出る場合もその多寡が決まった。道路一本挟んでという状態がたくさん生まれた。

おカネが絡むと変わってしまう人は多い。その女性の気持ちもよくわかる。こんなことがなければ、おそらくクレーム電話を長々とかけてくるような人ではなかったのだろうと思う。

同じころ、町民に対して国から避難指示を解除したいという説明をする、一連の「住民説明会」というものが行われ、私も役場職員として何回か出席した。といっても私はもちろん会場設営スタッフの一人であって、檀上で説明する側の立場ではないのだが、あれほど「いたたまれない場所」を経験したことはなかった。

意見を言う多くの人が解除に反対だった。反対意見というよりは怒りの表現だった。受け答えはどこまでもかみ合わなかった。ほんとうは放射線量が心配だからではない、解除されて避難区域でなくなったら賠償金がもらえなくなるから反対なんだろう、という揶揄も世間にはあった。実際、解除の是非を話し合うはずの場で、発言は賠償金にも及ぶことが少なくなかった。「どうして●●町と●●町とでは同じ●●なのに賠償金の扱いが違うのか」等々。

やっぱりカネなのか。

いや違う。ほんとうはカネの話なんかではない。元に戻せと言ってもどうやっても元に戻せないことはわかっている切なさ。結局カネでしか落とし前のつけられない悔しさ、無念さの発露だったのだと思う。

とはいえそのカネ自身がまた、一種の麻薬になり得る。あれから9年。賠償金も補助金も税の減免もそうだ。それがなければやっていけない状態がそれほど長期間続けば、「中毒」になってしまったとしてどうして責められよう。

もちろんそうならず、想像を絶する努力で自ら道を切り開き、がんばっている人たちは少なくない。そこに「希望」を見出し、彼らを応援すればいい。実際、私はそういう人たちの話をたくさん書く機会をもらってきた。マスコミの「3.11から9周年」特集は新型コロナのせいもあって至極控えめに見えたが、そういう「希望」を扱う記事も多少は全国の人の目に触れたはずだ。

が、一歩ひいてマクロで眺めるとどうか。いまだに帰還困難区域が残っているという現実だけからいっても「福島の復興は道半ば」なのは客観的事実だ。けれども、おカネが途切れると困るから「まだまだ復興してません」と言い続けなければならないとすればアリ地獄である。少し前、同じ首都圏からの移住組ライターのYさんとこの話題を話していて、「ほんとうは復興なんてしないほうがいいんだ」と口走った自分に、自分で驚いた。

なんでそんなことが口をついたのか。その理由の少なくとも一部は、おそらく、私自身も「復興予算」という名目で降りてくるお金のおこぼれに与る仕事をしているからだ。そういう仕事をもらうとき、ある種の使命感に加えて、私が「フクシマという特殊な環境」の内にいることを自分の「付加価値」の一部にしようとしていることは否めない。だから「特殊」でなくなると困るのである。旧避難区域から70キロ以上離れた県都・福島市に住むお気楽ライター稼業の私が、こうなのだ。

こんなことは書いてはいけないことだった。書いてもしかたないからだ。福島にはこんなフクザツな問題がある、ということを知ってもらったとして、だからそれが何につながるというのだ。

同じ社会問題でも、たとえば児童虐待とかプラスチックごみとかの話であれば、それについて発信し社会的関心を高めることで政治イシューになり、やがてなんらかの政策につながるかもしれない。あるいは個人の意識が高まり、行動の変化が課題解決につながるかもしれない。

だけれども、この、おカネによっておかしなことになっていく福島の(一部の)問題というのは、当事者以外が知ったところで「大変ねえ」としか言いようがなかろう。既にこの地の「問題解決」のために、国のおカネはこれ以上ないほど注ぎ込まれている。日本の他の地域がこの現状を他山の石として学ぶことがあるとすれば、いったい何なのだ。これほど多くの人を苦しめてきた事象から得られる教訓は?同じことを繰り返さないための教訓は?

どうしてこんなことなっちゃったのか・・・

繰り返す以外に今の私に答えはない。新型コロナ禍の裏で、数々の問題は静かに進行していく。

フクシマフィフティ

映画「Fukushima 50」を観てきた。

いろんな見方があろう。福島県民と県外の人、同じ県内でも浜通りと中通りの人、避難区域にいた人とそうでない人。受け取り方、感じ方は違うと思う。でもやはり、この映画が世に出た意味はあると思うし、多くの人に観てほしいと感じた。

映画の冒頭に「これは事実に基づいた物語です」という断りが入るとおり、ノンフィクションとはいっても、当たり前だが一定の脚色は施されている。ほんとうに事実を知る人たちにとっては、一種の気持ち悪さを感じるところもあるかもしれない。私が浪江町役場で広報の手伝いをしていたとき、大震災直後の浪江町を題材にした、ある芝居の脚本の確認依頼を受けたことがあった。あの日あの時浪江にいたわけではない私に真偽の判断はできないので、当時を知る周りの職員に聞くと、やはり細かいセッティングが「事実と違う」部分は多かった。しかし、突っ込み始めればきりがない。このときも「事実に基づく物語」という一文を入れてもらうことで決着した。

映画も芝居も、報告書や記録誌とは違う。その意図は別のところにある。私が感じたこの映画の意図は、あの日あの時あなた自身は何処にいて、何をして何を考えたか、もう一度思い出せということだった。

9年前の3月11日金曜日。私は東京・南麻布にある、テンプル大学という米国大学の日本校の広報をやっていた。大学といっても普通のオフィスビルに入居しており、私のオフィスは4階だった。東京もたしか震度5強だったか、今までと違う大きさの揺れにあわてて階段を降り、道路に出た。今でこそ「あわてて外に出ず、まず机の下」が常識なのだろうが、そんな心の準備はなかった。当時は直前にニュージーランドで地震が起き、建物倒壊のシーンが記憶に新しかったこともある。

このとき、詳細は覚えていないが私はおそらく、真っ先にオフィスを飛び出したのだ。当時、私はスタッフ5人を持つマネージャーだった。日本の大学と違って春休みではなかったので、同じフロアに学生たちもたくさんいた。隣は学長室だ。なのに、気が動転した私はスタッフや学生を先に逃がすでもなく、どんな行動をとるかを学長と話すでもなく、我先に階段を駆け下りたような気がする。

結果的に建物はまったく無事で、スタッフも学生もケガ人などは出ていない。が、しばらくして「自分は曲りなりにも上長のくせに真っ先に逃げた」ということに気づいたときの、あの恥ずかしさ。しょせん自分はこの程度の人間なんだという気づきは、どれほど受け入れ難くても真実だった。

こんな話を書いても恥さらしなだけだが、映画Fukushima 50はあらためてそれを思い出させてくれたし、それにフタをしてきた自分にもう一度向き合う機会をくれた。向き合って、受け入れられれば、先に進める。

震災後の2週間ほどは、文字通り映画の中にいるような感覚だった。学生も教職員たちも外国人が多い。アメリカだけでなく多国籍だ。みな自国大使館の飛ばすチャーター機で、あるいは自力で、どんどん西へ、国外へ出ていった。木曜日にはテンプル大の米国本校がチャーター機を飛ばし、残った外国人学生を逃がした。同時に、日本人学生向けには関西方面へ向かうバスがチャーターされた。

混乱のさなか、アメリカ人の学長と日本人の副学長、そして私と3人で学長室に集まり、もうこれで終わりかもしれない、といって涙したのを覚えている。もちろん、Fukushima 50 の同じセリフとは意味も重さも違うのだが、そういう気分だったことは確かだ。

そして計画停電。私は自宅も職場も23区内だったから免れたが、川崎の実家に帰ったとき一度だけ、3時間の停電を経験した。午後3時、いっせいに電気が消える。ぜんぶ信号の消えた道の不気味さ。たかが3時間だが、あれを体験できたことを今となっては有難いとさえ思う。

あのとき、考えたのだ。私たちは電気がどれほど必要なのか。その必要な電気を賄うため原発は本当に必要なのか。知らないなりに考えたのだ。原発に賛成でも反対でもいいから、自信をもってその理由を言えるようになること。そのために考え続けることの大事さを、この映画は思い出させてくれた。

災害があるたびに、残された人たちが何かを学びますように。残された私が何かを学びますように。