メメント・モリ(2)

ツバメの子育ての時期である。ツバメは天敵から身を守るために人間の力を借りると、テレビで見た。だから人家の軒先に巣をつくるのだ。この辺ではコンビニの自動ドアの上にまで作ってしまうので、入口に大きな扇風機を置いて上向きに回している店もある。

今年は、住んでいるマンションのエントランスの軒下に初めてツバメが巣をつくった。ここの住人も管理会社も性根がやさしいので、棒で叩き落としたりしない。代わりに「頭上ご注意ください」という貼り紙が出た。フンが落ちるタイルの上にはビニールを張って保護してある。

先週の土曜日の午後。外出から戻ると、エントランスのタイルのうえに小さな灰色の塊が3つ落ちていた。巣から落ちたヒナだった。まだ目は開かず羽も生えかけのヒナ。即死だったのだろう、すでにアリがたかり始めていた。共用部の清掃をしてくれる管理員はもう退勤したあとで、翌日は日曜日。しかたない、自分の部屋から箒と塵取りを持ってきて拾い集め、穴を掘る道具がなかったから植え込みの土の上にそのまま置いた。

まもなく親鳥が戻ってきたが、子どもの数が減ったことを訝しがる様子はない。兄弟たちも、まるで何事もなかったかのように口を大きく開けて餌をねだっていた。

それからエントランスを通るたびに植え込みの中をちらりと覗いたが、死んだヒナたちの身体は順調に虫たちと微生物たちに分解され、1週間たった今はほとんど跡形もない。あぁ、生物の身体はこういうふうに分解され自然に戻っていくのだなと思った。今の日本では土葬や鳥葬はダメだけれども、私もいずれ骨になった後はやはり土か海にそのまま撒いてもらい、生きものの循環の中に戻っていきたい。

いま、巣の中では残った3羽がもうだいぶ大きくなり、小さな巣にぎゅうぎゅうに並んで、親の帰りを待っている。6羽のままだったらとても入りきらなかっただろう。巣立ちはいつか。

(写真は今回フリー素材です)

メント・モリ(1)

メメント・モリ

コロナ騒ぎの中でSNSをツラツラ読んでいると、ウィルスと細菌が同じものだと思っている人が結構いる気がする。かくいう私も、この二つがまったく別種のものだと知ったのはそれほど昔ではない。10年くらい前に分子生物学者・福岡伸一さんの「生物と無生物の間」というベストセラーを読んで、細胞を持つ細菌は正真正銘の生き物だが、細胞を持たないウィルスは生物でも無生物でもないと知り、へぇーと思った。

ウィルスは全く代謝をしないという意味において、生物とは言えない。細胞がないから自ら分裂して増えることはできない。が、感染した相手の細胞を使って自己複製し増殖できる、という意味では完全に無生物とも言えない、のだそうだ。

▲本文とは無関係ですが、夏野菜といえば茄子。茄子と油ってどうしてこう相性がいいんでしょうねー

生命あるいは生物の定義はひとつではないのだろうが、私はこの際あらためて、5歳の子供に「生きものって何?」と聞かれたら何と答えるか、自分なりに考えてみた。

すぐ降りてきた答えは「いつかは死ぬもの」だった。別に哲学的に高尚なことを言おうとしているのではなくて、死んでることの反対が生きてること、という単純な思考だ。が、これを裏返せば、生きてないものは死なない、ということである。ウィルスが生物でないなら、ウィルスが「死ぬ」ということはないはずだ。じゃあ(ワクチンなどで)ウィルスに感染しないようにすることはできても、ウィルスそのものは決して滅亡しないのか?

と素朴な疑問を抱いたものの、怠け者なのでその後ちゃんと調べることもしていなかった。ところへ今般、福岡さんの別のベストセラー「動的平衡」という本を読んだら、ウィルスは核酸(DNAまたはRNA)がタンパク質のコートを纏ったもので、放射線などを当ててDNAを破壊すればウィルスは「死ぬ」と書いてあった。

なるほど。では、ドアノブをせっせとアルコール消毒すればウィルスは拭き取れるかもしれないが、そのDNAは破壊されないからウィルスは拭いたキッチンペーパーに移動するだけなのよね?ゴミ箱の中でもずっとそのまま、ごみ回収車の中でもそのまま、焼却炉の高温でやっとDNAが壊れて「死ぬ」のかしら?残念ながらその辺はコロナ前に書かれた福岡さんの本には書いていないので(そんなことよりもっと面白いことがたくさん書いてある)、詳しい人がいたらぜひ生物学音痴にもわかるように教えてほしい。

さて、今回こんなことを書くのはウィルスと細菌の違いについて世を啓蒙したいからではない。先ほどの「いつかは死ぬもの」から連想して近ごろ考えることを共有してみたかったからだ。

人間いつかは死ぬ、というのは誰でも知っている自然なことだ。なのに、我々は「死」というのものを遠ざけようとしすぎてないか?退治すべき悪者扱いしすぎてないか?どうも戦う相手を間違えている気がするのである。もちろん暴力や事故による死は根絶を目指すべきだろうし、早すぎる病死もなるべく減らしたい。実際そうやって人類の平均寿命はものすごく伸びてきた。問題は、早すぎるか早すぎないかの線引きがどの辺りか?である。

個人的には、還暦すぎたら生物学的にはもう「早すぎる」とは言えないと思っている。ただ、現代では還暦を過ぎても親が元気だったり、子供がまだ学生だったりして、そういう意味で死ぬには「早すぎる」状況がほとんどだろう。私も両親が存命のうちは何としても死ねない。が、二人ともいなくなったらもういつお迎えが来てもいいと感じている。実際、私の世代が適当なところで早く退場してあげることは、次の世代にしてあげられる最善のことだと思うのだ。

いやいや、自分はいま健康で死ぬ気がしないからそんな偉そうなことが言えるのだ、という気もしないではない。2年ほど前、年の離れた妹のようだった三十そこそこのSちゃんがあっけなく死んでしまったときは、私も「死」を恨んだ。だが5年前、当時78歳の母が大病して生死の間をさまよったときは、「どんな姿でもいいから生きていてほしい」とは思わなかった。いま87歳になる父がまた入院しているが、本人にもう生きる気力がないのであれば、無理に「がんばれ」と言う気にはなれないし、自分が父の立場だったら言ってほしくないと思う。

福岡氏のいう「動的平衡」とは、生命はまさに「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」だということだ。全身の細胞は常に壊されては新しく作り替えられている。ひとたび完成すると数は増えないという心筋細胞や脳細胞も、それを作っているタンパク質分子は入れ替わっている。だから細胞レベルでは数年前の私と今日の私はまったく「別人」である。が、そういう流れの中で秩序の平衡を保っているものこそが生命だと。そうやってエントロピーの法則に先回りして、常に古いものを捨て新しいものに置き換えることを繰り返す柔軟な構造こそ、生命だと。(ただし、やがて最後はエントロピーの法則が勝ち、秩序は乱れ、生物は死ぬ。)

私が膝をうったのは、これは個体だけでなく種全体にもいえるという部分だった。福岡氏曰く、

「エントロピーの法則がこの世界を支配する限り、一つの生命体が永遠に生き続けることはできません。その意味で、生命現象から見れば、個体の死は最大の利他行為です。ある個体がいなくなるということは、住む場所や食べるものが別の個体にバトンタッチされ、新たな生命がはぐくまれることを意味する。」(動的平衡ダイアローグより)

そう、個体の死は利他行為なのだ。私の感覚は正しかった!

・・・と思ったわけだが、10年後には私の身体は脳も含めて今とは別のものだから、死んでも生きてやるぞ!とか全然違うことを思っているかもしれないネ(笑)。

GWの温泉旅館で働いてみた

今年のゴールデンウィーク。世の中は10連休という人も多かったようだが、フリーランスという”自由の身”になったら連休というものの有難みは半減した。クライアントはみな休み。唯一のレギュラーアルバイト先である英語塾も休み。レジャーといってもどこも高くて混んでいる。例年のように実家に帰省?いや、10日間では長すぎる。働かなければ収入のない身なのであるから、いっそ連休期間限定のアルバイトをしようと考えた。

本業は基本的に書き仕事。取材時以外はじっとパソコンに向かう時間が長いため、アルバイトはデスクワーク以外がしたい。それもたくさん身体を動かす仕事ならエクササイズと一石二鳥!

などという甘い考えのもと、世の中が休んでいるとき最も忙しい場所、つまり観光地の宿泊施設で接客業(の裏方)というものに初挑戦したのである。

▲岩手のソメイヨシノはゴールデンウィークが満開。

お世話になったのは、岩手県のとある温泉旅館。一言でいえば、予想通り大変な仕事だったがやってよかった。何事も、実際に経験してみるまで分からないことはたくさんある。

一口に宿泊施設といっても規模や業態は様々だから、今回の私の経験が業界全体に当てはまるとは思わない。が、おそらく中小規模の温泉旅館というのはどこも似たようなものではないだろうか。世の中が10連休なら、彼らは10連続勤務である。その後に交代で10連休がとれるわけもない。しかも連日早朝から深夜まで(昼の中休みはあるにせよ)の長時間労働。その合間に10分程度で3食のまかないご飯をかきこむ生活だ。

仕事は配膳、清掃、洗い場、布団敷きなど。まさに私の望んだ「身体を使う」作業ではあったが、エクササイズを兼ねて、などというのは現場を知らない人間の思い上がりだと知る。念のため、と思って持っていった医療用コルセットが大活躍だった。私は短期の派遣バイトなのできっちり1日8時間しか働かなかったが、それでも最初の数日は終わるとぐったり。持ってきたパソコンをやっと開ける気になったのすら、5日目である。

▲バイト7日目、やっと少し余裕が出て中休みの間に行ってみた遊歩道

フリーランスになってから、いろいろな短期バイトをやってみた。収入の足しにという理由も多少はあるが、いちばんの動機は今まで経験したことのない仕事の世界を知りたいということだ。

2年前はキュウリ農家で週3日半4ヶ月のバイト (その時の話はこちら)、昨年夏は桃の選果場で延べ1週間ほどバイト(その時の話はこちら)。4月の桃の摘花やサクランボ授粉バイトは今年で3回目。そしてこの度の温泉旅館。その度に、それまで交わったことのないような人たちに出会った。5年前に福島に来て公務員になったとき、その時点で、あのまま東京で外資勤めをしていたら一生出会うことのなかっただろう人たちと知り合うことができたが、一次産業や接客業の現場は私にとって更なる「別世界」だ。世界は広い。

そして、こうした「身体を使う仕事」でいつも感じることだが、なぜこれら肉体的労働の対価は、いわゆる「頭脳労働」とされるデスクワークより相対的に低いのだろう。通常は「生み出す付加価値の違い」などと説明されるのだろうが、では彼らの生み出すおいしいキュウリや桃、そしておもてなしのサービスには、それだけの価値がないということなのか。どうしてもそうは思えない。

そもそも、こうした「肉体労働」に必要なのは体力だけで頭脳はいらないかといえば、そんなことはない。今回、旅館の食事で使われる膨大な種類の器の収納場所を覚えるだけでも大変だったが、なによりも、何を言い出すか分からない客のニーズに合わせて当意即妙の対応が求められる接客技術など、少なくとも私にとっては上級中の上級スキルのように思われる(幸い、私が直接応対する機会があったお客さんはみな常識的で優しい人ばかりだったが)。

みなが当たり前に期待する「日本のおもてなし」 は、 こうして3連休すら滅多にとれない現場の人たちの献身(ある意味犠牲)で成り立っているのだ。 日本のサービス業の労働生産性は低いというが、当然である。それが問題だという人は、いちど大型連休に旅館でバイトしてみたらよい。

▲自宅朝食の定番。食べたいときに食べたいものが食べられる贅沢。

農業やサービス業(コンビニも介護も含めて)の現場がいまや恒常的に人手不足なのは、周知の事実だ。「正当な対価」の考え方は人それぞれだろうが、なによりも足りないのはこれらの職業に対するリスペクトではないか。私は胸に手を当てて心からそう思う。リスペクトが欠けたまま、日本人がやらないなら外国人にやってもらおうというのでは、早晩おかしくなるだろう。

不特定多数の人が使うトイレの掃除とはこういうものか、なんてこともやってみて初めてわかった。駅にしても公共施設にしても、毎日こういう作業を黙々とやっている人がいる。 次にトイレ掃除の人を見かけたら「お世話さま」と言おう。 旅館に泊まったら、お布団敷いてくれる人には「ありがとう」と言おう。 いままでみたいに機械的にではなく、ちゃんと心を込めて言おう。

四半世紀以上、一人前に「仕事」というものをしてきたつもりで、初めてそんな当たり前のことをはっきり認識できた黄金週間でした。m(__)m

初めての宇都宮ギョーザと初めてのタンマガーイ瞑想

人生で初めて宇都宮駅で降り、駅ビル内の餃子店に入った。メニューには焼き餃子のほかに水餃子、揚げ餃子、さらにパン粉をつけたフライ餃子というのもあった。わが福島市にも円盤餃子という名物があるが、円盤状に並べたプレゼンテーションを可能にするためには「焼き」しかない。さすが餃子のまちを標榜する宇都宮。バリエーションにも工夫があるようだ。久しぶりの肉食で翌日の腹下しを若干恐れつつも、ご当地モノは頂かねばならぬ。水餃子と焼き餃子を食したら、ふつうに美味かった。

惜しむらくはビールが飲めなかったことである。運転する予定があったわけではない。その日の夕方から2泊3日でタイ国のお寺さんが主催する瞑想合宿に参加することになってたからだ。

宇都宮からローカル線に乗り換えて30分、そこから車で10分ほど。ゴルフ場に囲まれた昔の温泉ホテルがいまは「タイ瞑想の湯」という施設になっている。一見ちょっと怪しげな名前だが、タンマガーイ寺院という世界30カ国以上に別院を持つ立派なお寺の運営で、オレンジの僧衣をまとったタイの出家僧たちが瞑想指導してくれる。

といっても、ここは私が自分で見つけたのではない。友人Kさんに誘われて初めて、日本にこんなものができているんだと知った次第。

マインドフルネスとかメディテーションというのは世界的に一種ブームになっているらしいが、日本人が瞑想といったらまずは座禅のイメージだろう。あるいはヨガマットの上で脚を組み、目を閉じて座っているモデルさんの写真もお馴染みかもしれない。私も両方とも体験してみたことはあるが、たいてい眠くなるか脚がしびれて集中できないかのどちらかだ。それへの対処方法の説明もなんだかピンと来なくて、自分から瞑想合宿などに参加しようと思ったことはなかった。

ついでにいうと、南伝仏教は(日本の大乗仏教諸派よりも)インドの初期仏教に近いはずなのになぜ仏像を礼拝するのか、私は自分で調べもせずただ疑問に感じていたのだが、これもこの機に聞いてみたところ、「神のような存在としてブッダを拝んでいるのではなくて、私たちはブッダが発見した真理を学ぶのだから、先輩として、先生として敬意を表しているのだ」という答えをもらって誠にしっくりきた。

心配した夕飯抜き(寺では正午以降は食べない)も意外につらくなく、かえって朝は身体がすぐ動くということも発見。そして、たった1日半だがスマホの電源を切ってプチ・デジタルデトックスできたのがよかった(したがって写真もない。芝桜の写真は、2日目の午後にみんなで散歩した芝桜公園でスタッフさんが撮ってくれたもの)。わずか2泊3日で何が変わったというわけではないが、なかなか興味深い体験ができ、誘ってくれたKさんには感謝である。

同寺院の東京の瞑想センターでは毎日のように瞑想指導があるそうだ。こういうのが福島にもあったらなあと思う。この8年間、いろんなことがあって人々の感情が大きく揺れ動き、心の中に悲しみだけでなく多くの無念・悔しさ・怒りが澱のように沈んでいる。それを解きほぐして洗い流すには、ストイックな禅の瞑想やヨガ体操系の瞑想もいいのだろうが、こういうだれでもできる穏やかな調心のアプローチこそ有効なように感じる。

そんなことは自分がこの瞑想で悟りを開いてから言え、なのかもしれないけど。

世界の食料事情~「もったいない」の実践を(4)何を変えなければならないか?

これは、2013年1月に発表されたレポートGlobal Food-Waste Not, Want Notを、発行元である英国のInstitution of Mechanical Engineersの許可を得て和訳したものです。2013年3月に以前のブログでPDFを掲載しましたが、もう一度多くの人に知ってほしいと思い、数回に分けてテキストで掲載しようと考えました。私が食品ロスの問題に関心を持ち、基本的に菜食生活となるきっかけを作ったレポートです。

食料生産・流通にも電力を始めとするエネルギーは欠かせません。原発問題を考える際にもひとつの要素になるかと思われます。

オリジナルの英文レポートはこちら⇒ GLOBAL FOOD WASTE NOT, WANT NOT . 

(オリジナル英語版に章番号は付いていませんが、ここでは分割掲載のため便宜的に付加しました。またオリジナル版に掲載されている参考文献一覧は和訳していません)

 


4.何を変えなければならないか?


増え続ける世界人口、向上する栄養基準、変化する嗜好――この先も食料増産への圧力は高まり続けるだろう。エンジニア、科学者、そして農業従事者は、この増産を可能にする知識も道具もシステムも持ちあわせてはいるものの、その規模や成功の可否は、必要な資源が物理的・経済的に入手できるかどうかにかかっている。しかし実際、これらの資源は失われつつある。

現在、世界の総生産量の30~50%という大量の食料が、農場から消費者に届く間に失われている。上で見てきたように、その主な原因は機械化の不足、農業知識の欠如、管理技術の不良、電気や水道などインフラの未発達、不適切な貯蔵・輸送用施設などである。さらに、見た目の偏重や大量購買を促す今日の商習慣も廃棄の原因となっている。

キャプチャ4国の開発段階にかかわりなく、またフードチェーン上のロス発生場所に関係なく、そのロスは単に栄養素の損失を意味するだけでなく、その生産・加工・流通のために使われた土地や水、エネルギーといった資源のロスをも意味する。そう考えると、先進国における大量の食品ロスの問題は一層持続不可能なものとなる。そうした国で気軽に捨てられてしまう食べ物には、地球をほぼ1周して運ばれてきたものも多いからだ。

この食品ロスの削減のためには、生産・出荷・貯蔵の全過程で、また生産者から家庭まで全段階で改革が必要だ。具体的にどんな施策が有効かは、その国の開発段階によっても異なるが、政府、技術者、そして一般大衆に行動を促すためのキーポイントはいくつかある。

まず欧米のような先進国においては、技術革新やエンジニアリングの進歩とともに既存のインフラを更新し、輸送への接続を改善する必要がある。最近の例では、シッピングコンテナで輸送される穀物量が増えたことで、道路や鉄道、海上輸送設備の効率的な利用が可能になっている。こうした改善とともに、その新設備や新メソッドを最大限に活用するための教育、訓練、管理システムの導入も大切である。ほかにもあらゆる機会をとらえて廃棄削減に努力しなければならない。

しかし、先進国において最も指摘されるべき問題は、現在の市場条件下では多くの主食料が低コスト商品とみなされ、その廃棄についてしかるべき注意がほとんど払われないという点だ。たとえば、世界の穀物価格は、2008~2010年に需給バランスが逆転するまで、長年にわたりほとんど上昇しなかった。その間の物価上昇を考慮すれば、事実上値下がりしていたことになる。その結果、廃棄によるロスを削減しようという動機が生まれず、経済的恩恵もほとんどなかった。しかし、将来の市場環境を予測すると、廃棄ロスのコントロールは経済的にも政治的にも多大な恩恵をもたらすと考えられることから、食品ロス削減の努力はさらに推奨されるべきである。

この先食料の価値が上昇するにつれ、現在のように、品質的に全く問題のない野菜や果物を純粋に見た目だけで大量廃棄するような慣行は、経済的に成立しなくなるかもしれない。しかし政府は、食料価格の上昇でやむなくロスが減るのを待つのではなく、もっと積極的に消費者の考え方を変え、小売業者にそのような慣行をやめさせる政策を実行すべきだ。そのためには、現在深く浸透している商慣習や消費者文化を変え、食べものを大切にする考え方を卸売・小売から一般家庭まで、根付かせなければならない。最終的には、食品価格の上昇によってこうした機運は自動的に高まり、また政府の施策でさらに促進されていくだろう。

現在急速な発展の途上にある国々は、インフラの改善を強力に推進している。その第一の目的は市場へのアクセス改善だが、これは同時に廃棄の削減につながる可能性も秘めている。たとえばブラジルでは、長距離道路を整備することで内陸部の農家が港まで産物を輸送できるようになった。チリでも交通・港湾施設の改善により、同国の果物やワインの海外市場への輸出が飛躍的に増えた。旧ソ連諸国でも農産物貯蔵施設の品質向上策が実行されている。中国ではインフラの機械化が急速に進んだ結果、リンゴやにんにくなどいろいろな産物の輸出が可能になった。こうした物理的なインフラの改善を支えるのは、教育、訓練、マネジメントシステムである。それはエンジニアリング知識の向上だけでなく、先進国の犯した間違いを繰り返さないためにも、またオペレーションの効果を最大限に維持するためにも不可欠である。

開発が遅れている国々、特にサハラ以南のアフリカや東南アジアで注力すべきは収穫、出荷、貯蔵、輸送までのインフラ整備である。こうした設備の開発は現地の技術レベルにあわせて行われる必要があるが、このことは開発の初期段階で弾力性と持続性を確立しておくためには不可欠だ。気候変動など環境リスクが高まる今日では、それは決定的に重要である。インフラの改善とは、道路整備や電気・飲料水の安定供給だけでなく、虫を寄せつけにくい保存用袋といった簡単な物品や、サイロやタンクなど適切なサイズの貯蔵施設の普及なども含まれる。太陽光や風力による発電技術が進めば、遠隔地でも冷蔵設備が普及する可能性があるが、一次産品のための小規模冷蔵システムはコスト面での課題が大きい。なにより、こうしたシステムへの投資および運用コストは、扱う農産物の価値に見合ったものでなければならない。

しかし、新興国・開発途上国におけるもっと根本的な課題は、生産者がその生産物の特徴を知り、産物ごとの最善の取り扱い方法を周知するための知識移転が必要ということだ。政府はことの重大性と緊急性を認識し、特に収穫後の取り扱いに関するベストプラクティスを周知する教育訓練プログラムを導入すべきである。非常に傷みやすい農産物の場合には、こうしたアドバイスとはつまり、どうしたら最も早く、最もよい状態で市場に届けられるかという点に尽きるだろう。なるべく多くの農産物を販売可能な状態で市場に届けることを目的とした技術教育においては、マネジメント知識の移転も重要である。ここで政治家や議員の果たす役割は大きい。彼らは、衛生・検疫制度上のニーズと、自由貿易推進とのバランスをとることができるはずだ。現状では、紛争中の国境を越える際に傷みやすい農産物が大量に廃棄されている。

さらに、こうしたシステムの開発には巨額の投資と革新的な金融手法が要求されよう。したがって金融機関の果たす役割も重要である。必要な投資規模を示す例をあげると、エチオピアで検討されている農産物貯蔵施設の全国ネットワークの整備計画には、最低でも10億ドルかかると見積もられている。このような規模の投資が今後多くの国のさまざまな産物に関して必要となるが、そのためには各方面の密接な連携が不可欠である。しかし、いまの開発援助機関の活動を見ると、協力や連携が行われているとは言いがたい。たとえばウガンダの穀物倉庫システムの建設に関して、EUと国連とIFCが、互いの連絡もなくそれぞれ独自に動いているという現状は、ぜひとも変えなければならない。

改革が必要な分野は広範囲にわたるが、上記のような変革はそれらを網羅すると同時に、同じくらい幅広いスキルの展開も要求している。作付けから最終消費に至る食料生産の全段階において、農作業用機械、道路、鉄道、発電、流通、飲料水供給、暖房、換気、廃棄物処理、貯蔵施設まであらゆるインフラの拡大と改良、そのための設備・装置の開発・維持に、様々な分野の研究者、エンジニア、技術者の力が必要となるだろう。エレクトロニクス、システム、IT分野のエンジニアは、高効率・低コストの環境制御の実現において、また機械・土木エンジニアは構造物や輸送・出荷システムの改良などにおいて、それぞれ力を発揮すると考えられる。制度に回復力と持続性を組み込むためには、大規模な変革とシステム的発想が不可欠であり、それには複数の分野を横断した連携協力が重要となる。

昔、それぞれの家庭では、生鮮食料も保存食料も含めてみな自家用の備蓄を行っていた。しかし先進国においてこの役割は、産業化されたフードチェーンに肩代わりされた。開発途上国や新興国でも、先進国のやり方を導入するにつれ同様のことが起きつつある。こうして、世界中の人の大部分が、食料供給の仕組みに関与することがなくなり、食べ物に関する知識を失い、サプライチェーンの末端におけるただの消費者になってしまった。これが、食べ物の源とその価値についてほとんど理解されない今日の文化を生み出している。使う資源も環境リスクも最小化しながら増え続ける人口を養っていくために、食品ロスをゼロに近づけようとするなら、この「つながりの断絶」こそ正す必要がある。実際、生産量の3分の1から半分が廃棄されている現状では、いくら増産をがんばったところでほとんど意味がない。将来の世代が食べていけるよう、いまこそバランスを是正し、食べ物の価値を認識し、食品ロス削減に向けて努力すべきときである。


提言


将来の食料危機回避の一助として、当協会は下記の提言を行う。

1. 国連食糧農業機関(FAO)が、国際社会のエンジニアらと協力し、先進国から開発途上国へのエンジニアリング知識や設計ノウハウ、必要な技術の移転を促すプログラムを導入すること。これにより、収穫時および収穫直後の農産物の取り扱い環境が改善される。

2. 開発途上国の政府は、現在計画・設計・建造中の交通インフラや貯蔵施設に関して、無駄を最小化する考え方を導入すること。

3. 先進国政府は、消費者の考え方を変える政策を導入すること。これにより、小売業者が見た目で食品を選別するような無駄を生む慣習をやめさせ、また買いすぎによる家庭での食品ロスの削減につなげる。

(了)

和訳©中川雅美

世界の食糧事情~「もったいない」の実践を(1)増え続ける世界人口を養うために

世界の食糧事情~「もったいない」の実践を(2)食糧生産に必要な資源

世界の食糧事情~「もったいない」の実践を(3)いま持てるものを無駄にしている私たち