せいぶつ

午前10時過ぎ、パソコンを立ち上げたらネットが繋がらない。マンション全体で契約してるネットワークに有線で繋いでる。トラブルシューティングしたらケーブル破損かもというので、んなわけないだろと思いつつ別のケーブルに替えてみるも、やっぱりダメ。マジか、と焦って業者に電話したら、マンション全体で使えなくなっているようなので至急原因調査するとの返事。落ち着くために茶でも飲もうと台所に行くと、今度はIHヒーターがつかない。電子レンジも動かない。もしやと思ったら照明もエアコンもダメ。とりあえず日勤の管理員さんに状況を聞くべくエントランスに降りると、案の定自動ドアが開かない。管理員も巡回中らしく不在。ふーむ、超局地的災害に襲われてる気分。

とそのとき、ロビー掲示板に貼り紙を発見。その日の10〜11時、設備点検のため停電すると書いてある。

なーんだ。こんな大事なこと、きっと各戸にもお知らせが入ってたはずだが、私が見逃してたんだろう。

それにしてもこんなに電気に依存していて大丈夫なのか、ワタシ?人間、電気を使い始めてたかだか200年なのに、もう電気がなければ日常生活が立ち行かなくなった。そのうち、人間自身もしっぽの骨からしっぽのようにコードを引っ張り出してプラグインする日が来るんだろうか。そうやってぜんぶ充電で動くAI搭載アンドロイドになれば、経口栄養は不要となり、したがって排泄も不要となり、生殖もなく病気もなく、死とは部品の劣化によるスクラップにすぎなくなる。ヒトが生物でなくなれば食糧問題をはじめとする様々な社会問題が解決する。

でも、そうやってヒトが「アンドロイド種」に進化するとして、その最大の弱点は逆に「電気がないと機能しない」ってことだ。人間の知能を超えたAIも、人間の身体機能を超えたロボットも、電源がなければ動かない。

ネットにつながらなくても電子レンジが使えなくても、生物であるワタシはとりあえず生きている。外部エネルギー源にプラグインしなくても、とりあえず心臓は動き続けるし、血液は流れ続ける。あらためて、これってすごいことじゃん、と思ったりする彼岸間近の夕暮れであった。(ちなみに墓参り帰郷は早めに済ませました)

オリンピックとお盆が終わって、今週末は川崎に帰省を予定していたのだが、首都圏の感染者数まさかの爆増でさすがに躊躇したところ、母の方から今は来なくていいというので、それならばと福島市内でおとなしくしている。代わりに桃を送れとメールが来た。例年通り7月末には既に1箱送ったのだが、あまりにおいしいから追加で、というご注文だ。

桃には何十種類もあり収穫時期が少しずつ違う、というのは福島に来てから学んだことである。7月に送ったのは「あかつき」で、今から送るのは「幸茜」という種類になるが、桃と言えば生か缶詰かの二択の環境で長年暮らしてきた母に、品種による味の違いが分かるとは思われない(もちろん私にも分からない)。状態がいい「福島の桃」ならなんでもおいしく食べてくれるはずだ。

普段あまり果物を食べなかった父も、一昨年までは桃を送ると喜んで食べていた。昨年の今ごろは3度目の入院中で、口から食べられずに(誤嚥性肺炎のため)点滴だけで生きていたが、見舞いに行くと言ったら桃が食べたいと言う。ダメなのを承知で、小さく刻んだ桃を持ち込み、看護師がいない隙に一切れ口に入れた。そのときの「ああ、うまい」という父の声は生涯忘れない。が、飲み込んではいけないのですぐに吐き出させた。その2か月後、再び食べ物を口にすることなく亡くなった。

今年送った桃は母が仏壇に供える。私も朝食用の桃を買うたび、遺影に供える。あともう少し、桃の時期が続く。

Stay cool.

暑いとき、海へ行く人と山へ行く人がいるとすると、私は断然「山派」である。単に標高が高いところは涼しいだけでなく、塩水より真水のほうが涼しげだと感じるのは私だけかしらん?(笑)ということで、今回は我が家から車で1時間(+徒歩1時間)圏内のきれいな沼シリーズをどうぞ!

▲桶沼
▲男沼
▲女沼
▲鎌沼
▲鎌沼近くの池塘

世の中いろいろ喧しいが、結局人類は自分で自分の首絞めて騒いでるだけ。たまにこういうところで頭冷やさないとおかしくなるもんね。

偉そうですいません

私は文章を書くとき、特段の理由がなければ常体(だ・である)を使う。敬体(ですます)よりコンパクトだし、なにより形容詞で文章を終わらせられるのが便利で、語尾のバリエーションがつけやすい。たとえば、この文章を敬体で書くと、

「なにより形容詞で文章を終わらせられるのが便利で、語尾のバリエーションがつけやすい(の)です。」

となる。「つけやすい」で終われないので「です」や「のです」を付けるが、これが続くとなんとなく稚拙でカッタルイ文章になりがちだ(と私は思う)。

そんなある日の夕餉

でも、最近の若い人たちが発信している「読まれるブログの書き方」的な指南をいくつか読むと、「だ・である」よりも「です・ます」のほうがベターだと書いてある。なぜなら、「だ・である」は断定する言い方で偉そうに聞こえるから、だそうだ。

え? じゃ「吾輩は猫である」は断定で、「吾輩は猫です」は断定じゃないのか? いつから日本語はそういうことになったのだろう。

先般も、一問一答形式のインタビュー記事でイントロの地の文からすべて常体で書いたところ、インタビュー相手の方から、「自分の発言部分はですます体に変えてほしい」と依頼を受けた。理由は「上から目線に感じるから」。

もちろん敬体のほうが柔らかい印象になることはたしかで、文章の目的・内容によってそのほうがベターだと思えばそうするが、伝えている事実は変わらない。そのインタビューの場合、発言内容が大いなる自信と熱量を感じるものだったので、むしろ常体のほうがニュアンスまで伝わると思ったのだが、感じ方は人それぞれなのだなと、あらためて思った。

このブログも「偉そう」に聞こえてたら申し訳ないけど、それも含めてワタシなのでご容赦を。日本語って難しいネ。

人生なにが良いんだか

SNSの投稿を見ていると、私と同世代以下、つまり40代~50代の友人たちもぼちぼちワクチン接種が始まっているようだ。彼らの大半は首都圏在住なので、自治体接種の順番はまだ回ってきてないはず。おそらく職域(とその家族)の接種だろう。

こういうとき、現役世代の個人事業主というのは不利だなと思う。それでも今回は、フリーランス協会という団体が全国のフリーランスの希望をとりまとめて職域接種に申し込む、という画期的なことをしてくれたのだが、結局のところ東京・大阪以外の会場は希望者が1000人に届かず(例えばこの辺だと仙台会場は申し込みが100名ちょっと)、今のところ実施されないようである。もっともいまは全国的にワクチン供給時期が見通せないみたいだけど。

私自身はワクチン打つのは最後の最後の方でいいと思っているので別にいいのだが、諸事情で一刻も早く打ちたいフリーランスの中には、この時ばかりはサラリーマン(それも早期に申し込めた大企業)のほうがよかったと、我が身を恨めしく思う人もいるんじゃなかろうか。なんだかんだ言って、家族まで面倒みてくれる大企業の福利厚生はすごいのだ。フリーランス同士でまとまろうにも、特に地方では絶対的に母数が少ないから有効サイズの集団がつくれない。なので最後は自治体頼みとなる。

私が2018年に訪れたとき撮影した檜枝岐村全景

そういう意味では、住民の数が極端に少ない超過疎の自治体に住むのも一案だ。例えば人口520人の福島県檜枝岐村(ひのえまたむら)では、あっという間にほぼ全員のワクチン接種が終わっている。

ま、人生、何を優先するかですね。

ちなみに福島県には59の市町村があり、そのうち村は15。檜枝岐村の次に人口が少ない(原発事故の旧避難区域の自治体は除く)のが約1200人の昭和村だ。福島市から行くと、途中まで高速を使っても片道2時間半はかかる。先日初めて訪ねてみたが、期待を裏切らないのどかな田舎であった。早くも昭和55年には生徒減少で閉校となった小学校の校舎が、いまでは観光資源として保存・一般公開され、その隣にはおしゃれなカフェもある。

校庭にポツンと一台は久々登場のしんじ君

そのカフェの2階の窓から眺める昭和の校舎と校庭の大イチョウが、なんとも絵になる。何時間でもいられそうなゆったりした空間を、私と友人の2人で貸切状態という贅沢。

それでも広々としたカウンター席はアクリル板で仕切られ、換気のため窓も全開で肌寒いくらいだった。これほどの奥地でも、いやこれほどの奥地だからこそ、気を付けないといけないのだろうけれど・・・なんだかな・・・

カフェで頂いたガレットおいしかった