自称ライターひとりごと

前回の記事で、「ネット上にはまったく読むに値しない情報が溢れている」などと書いたあと、「このブログなんていい例だ」と付け加えるべきだったかしばらく考えたのだが、それほど卑下したものでもないかと思ってそのままにしておいた。

このサイトは一応、仕事用の自己紹介とポートフォリオを兼ねてはいる。が、元はといえば約5年前、まだ役場サラリーマン時代に東京の知友人たちへ近況を知らせたいというくらいの動機で書き始めたブログだ。その体裁は3年前にフリーになった後も原則的に変えていないから、記事内容にライター稼業の広告宣伝的要素は全くない。実際、このサイト経由で知らない方から仕事の問合せをいただいたことなど、自慢じゃないが皆無である(笑)。

もちろんこの場で自分の主義信条を主張するつもりもなく、誰の毒にも薬にもならない(そういう意味ではまさに無価値である)、ただの下心のないエッセイとして気軽に読んでもらって、たまにクスッとしたりホロっとしたりしてくれたら御の字だと思っている。

それでも数字など引用するときは一応裏を取るし、(滅多に出さないが)固有名詞の確認も怠れない。そういうこともあり、書いて公開するまでにはそれなりに時間がかかるが、誰に急かされる訳でもないから、いくらでも寝かせて推敲できる。では本業の書き仕事はどうかというと、こちらも基本的には自分の納得いくまで文章を練る時間をもらえるケースがほとんどだ。(ちなみに最近は、「書いたもの」で紹介しているような署名つき読み物記事よりも、企業さん向けのコピーライティングやビジネスライティング、翻訳、編集リライトなど、黒子に徹する仕事のほうが圧倒的に多い。)

ところが、世の中の「ライティング」仕事の中には、ものすごいスピードで文章を量産するカテゴリが存在するようなのだ。たまにSNSで流れてくるライター募集の情報を見ると、「1本3,000〜5,000字、月10本以上、1文字2円」などという記事作成仕事があってビックリする。3日に1本5,000字を仕上げるとしたら、とても現地インタビューや背景・周辺の取材などしている時間はなかろう(それで1本1万円、月10万円だから、たぶん他の仕事もしないといけないだろうし)。自身の経験値と自宅での情報収集だけでコピペでないオリジナル記事を量産していくというのは相当なスキルだ。私にはとても真似できないと脱帽する。

が、脱帽するのは真に「相当なスキル」を持っている人ならば、だ。個人のブログならそれこそ何をどう書いても基本的には本人の勝手だが、曲りなりにも「メディア」を名乗るサイトの中にも、首を傾げるような、読むに耐えないコンテンツが少なくないのが現実である。これは下調べも裏取りも確認も推敲もする余裕なく、右から左へ書いては納めるしかないライターか数多いる(そしてそれをチェックできる編集者がいない)ことの証左だろう。

これだけ誰でもwebメディアを開設できるようになった時代、そこに特化したwebライターという専門職が発達するのは自然だろうし、専ら広告収入に頼るメディアならばライター報酬にも自ずと限度があるとは思う。この世界にも安かろう悪かろうはある程度当てはまるから、ネット情報はしょせん玉石混淆と割り切って、読む方のリテラシーを上げる方が正解なのかもしれない。

それにしても、どうもお手軽なフリー稼業(副業?)としてライターを自称する人が多いのにつけ込んだ搾取に近い仕事が野放しになっていて、結果ネット全体に「しょうもない情報」が無意味にあふれているような気がしてならないのだが・・・(それ以前に、SNS上で流れてくる広告投稿など日本語の間違いがひどいのも散見され、いちいち腹を立ててるオバサンは疲れてしょうがない)

まあ、本当に価値のある情報はきちんと対価を払って入手せよということだ。もちろん、中にはこれをタダで読ませてもらっていいのか?というすばらしいネット記事にも遭遇することはあるけれど、それは類稀な幸運と考えるべきだろう。ということで、新しい生活様式の中、昭和生まれのフリーライターはネット依存を減らし、紙の新聞購読を再開しようと考えているところである。

(写真は、いろいろ違う角度から眺めた会津磐梯山)

【追伸】ブログ更新お知らせは引き続きfacebook様などのお世話になりますが、気が向いた方ば直接ブログフォローしていただけますと著者はたいへん喜びますm(__)m

食べる瞑想

今般、国から10万円がもらえるという。私は今のところ、有難いことに家賃や光熱費が払えなくて困っているような状態にはないので、一定額を適切と思う団体に寄付した後、残りは地元の飲食店の応援に使うべく、先月からせっせとテイクアウトを試してきた。

AFYL4371とはいえ一人で食べられる量にはおのずと限界があり、おひとりさまはこの方面では大した貢献ができないことがほどなく判明。加えて、2週間ほど前から歯を悪くしてしまい、治療が終わるまでいつものような大食ができない状態になっている。

身体のどの部位でもそうだが、ふだんと違う状態になって初めて「ふだん」というのがどれだけ有難いことかを悟る。歯が欠けてできた隙間にモノが挟まって痛むので、一度に口に入れる食べ物の量を減らし、入れたらうまく左右に散らしつつ、隙間に挟まらない部分で慎重に咀嚼しないといけない。

おかげで食べている間は全神経を口内に集中することとなり、

・・・いま私は右で噛んでいる。
・・・いま私は左の4番で噛んでいる。
・・・いま私は舌と上顎で飯粒をすりつぶしている。
・・・いま飲み込める状態になった。

と、思いもかけずヴィパッサナー瞑想の実践になっている(笑)。

そもそも歯が欠けたのは寝ている間の噛みしめ癖のためだ。ずいぶん前から歯医者にいくたび指摘されてきたことで、歯を保護するため就寝中につけるマウスピースも十年以上前から持っているが、つい着け忘れて寝ることのほうが多く、大して役に立っていない。対症療法だけでなく噛みしめ癖そのものを治したいのだが、いま診てもらっている歯科医によれば、噛みしめはストレス発散であり、がんばって癖をなくそうとしない方がいいんだそうである。

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しかしなあ。私のストレスレベルは、6年半前に「稼いでナンボ」の東京砂漠を離れて福島に来た時点で半分以下になり、3年前にフリーになった(=プチリタイヤした)ときから限りなくゼロに近いと思ってるのだが・・・。どうやらストレスというのは仕事のプレッシャーや人間関係だけから来るものではないようだ。

もともと家で仕事が基本、外食も稀な私にとって、昨今のステイホームも新しい生活様式も大した変化とは感じていないのだが、テレビやネットからの情報過多で知らず知らずストレスをためているのだろう。

実際ネットには全く読むに値しない情報が溢れている。いまや完全オフラインの生活など不可能だが、せめてSNSで流れてくる動画で時間をつぶすのは止めようと改めて心に誓う。(ちなみに、昔から一度は行ってみたいと思っているヴィパッサナー瞑想合宿は10日間の完全デジタルデトックスであるが、まだその機が巡ってきていない。「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリが実践してるらしいので最近は大人気かもね)

ともかく早く歯が治って、家でも外でもまたモリモリ食べられますように!

ということで、10万円の残りは治療費に消える見込みであります。

(写真は、お気に入りのベトナム料理店のテイクアウトと、先月友人宅でごちそうになった手料理)

英検の勉強はじめてみた

OXJZ7206ゆっくり起床。ゴミ出しついでの散歩と軽い体操、もしくはヨガ風体操&瞑想もどき。ちょこっと掃除。ほぼ毎日同じ内容のブランチ。英検の勉強。読書。ちょこっと買い出しand/or 図書館。ついでにちょこっとお茶。合間にメールチェック。5時をすぎたら晩酌開始。ほぼ酒の肴のみで構成される夕飯。ちょこっと(で終わらないときもある)ゲーム。風呂。ちょこっと体操。読書。就寝。

このところ、仕事のない日の私のスケジュールはだいたいこんなものだ。幸い、週2回のアルバイト先は(今のところ)休業していないし、フリーの物書きの仕事も、今はヒマだが来月以降は(現時点では)そこそこ予定が見えている。だいたい昨年も一昨年も年度初めはこんなものであって、だから昨年比収入減を根拠とするナントカ給付金も申請できそうにないが、それでも自分は恵まれている方だと思う。

さて、この歳になってなぜ英検の勉強かというと、まずはボケ防止の頭の体操であり、とはいえまだ完全引退はできないので、この先もいくらか使うであろう自分の「英語力」というものをここらで再度客観的に示す資格を取っておくのも悪くないと考えたからだ。

実際に過去問や練習問題をやってみて、私の場合明らかに足りないのは、与えられたテーマに対し与えられたキーワード2つを使って120~150語で答える英作文の能力である。

  • 会社は年功ではなく成績に基づいて従業員の評価を行うべきか?
  • 日本の高校教育は改善されるべきか否か?
  • 日本の消費者は将来より多くの輸入品を購入するようになると思うか?

そりゃねえ、ケースバイケースでしょう。前提条件にもよるでしょう。そんな簡単に白黒言える問題じゃないでしょう・・・などと考えてはいけないのだ。実際に自分がどう思うかに関わらず、物事をかなり単純化して書ける論旨で書かないといけない。目下その訓練の最中である。

  • 今般のコロナウィルス禍のおかげで地球温暖化に歯止めがかかると思うか?

こんな質問が出たらどうだろう?少なくとも一時的にはそうだろうと思う。「コロナウィルス、地球温暖化」で検索すれば、すでに温暖化ガスの排出量が25%減ったのどうのという情報が出てくる。短期的に悪いことではなかろう。でも、ダイエット後のリバウンドと同じようにアフターコロナのリバウンドも恐ろしいことになる可能性は高い。

リバウンドを止めるには、人々の行動を制限する同様のパンデミックが繰り返し起こるしかないのか。その過程で何百万人が死亡しても、それは現生人類に対する自然淘汰の圧力と考えるしかないのか。あるいは、次のパンデミックの前に人々の心が変わり、なんでも24時間OKという生活様式が終わりを告げ、食べるものは地産地消で大部分まかなうようになり、今回のパンデミックで仕事を失った都市部の人々がみんな地方へ移住して農業に従事するようになったら・・・

いや、こんな作文ではダメなのはわかっている。ではどう書けば・・・

(写真は図書館の隣の県立美術館、その庭に咲くハナカイドウ)

わたしの夢

2月の話になるが、ひょんなことから福島市のコミュニティラジオのゲストに呼ばれた。大場さんという県議の方がパーソナリティをつとめる「一隅を照らす」という30分番組だ。なんでワタシが?と思った(いまでも思っている)が、好奇心のほうが勝り、結局しゃべらせてもらうことになった。

▲去年の吾妻山の雪ウサギ。雪の少なかった今年は耳がない。

私は自分でモノをつくったりコトを興したりすることなく、ただ見たことや聞いたことを文字にする商売である。だから「私ならでは」の一次情報コンテンツはゼロとは言わないまでもごく僅かだ。ましてや「一隅を照らす」ような働きは何ひとつしていない。それでも構わないんですよ、という大場さんの巧みなリードとさすがはプロの編集テクニックで、なんとか番組としては成立していたのかな、とは思う(笑)。今回はいつもより聴きごたえがないと思われたリスナーにはたいへん申し訳ないが、私自身は大変よい経験をさせてもらった。

私は人に取材するのが仕事であるから、ふだんは質問する側である。質問される側になるのは、就職面接以来だ。昔から苦手にしてきたのは「やりたいこと」や「将来の夢」系の質問なのだが、今回も最後はやはりその一問であった。事前に質問リストをもらってはいたので、なにか番組の主旨に合うような気の利いたことを言えないかと数日考えてみた。だがどうしても、「お布団の上で笑って死ぬこと」という、まるでウケを狙ったと思われかねないアホな答えしか浮かばない。結局、収録本番でも正直にそう言うしかなかった。

その数日後には、そうとは知らずに参加したトークイベント&ワークショップで「あなたは何を大切にして生きているか」と聞かれ、ハタと困った。開催場所が古民家を手入れしたとても雰囲気のいい場所だったのと、たまには馴染みのないテーマの話を聞いて頭の活性化をしようという軽い気持ちで行ったのだが、ゆるいグループワークがあるとは予期していなかったので心の準備もない。幸い一緒のグループに場をまとめてくれる方がいて、私は曖昧にニヤニヤしながら黙っているだけで時間が過ぎてくれたが、我ながら呆れてしまった。

普段もっともらしく床に座って瞑想もどきを練習していると、それはまあいろんな想念が際限なく頭を駆けめぐってくれる。なのに「夢」だの「大切なもの」だの聞かれるととたんに思考がストップし、まさに頭が真っ白になるんだからもう笑うしかない。

世間には、やりたいことがたくさんあって夢を語るときりがない、という人が数多いる。私はそういう人たちを心底うらやましく思う。でもなあ。実際、夢を持つってそんなに大事なことなんだろうか?なんて自分探し真っ只中の高校生のようなセリフだが、おそらくまだワタシは自分を探しているんである(笑)

▲岩に刻まれた観音様たち。残念ながら風化が激しい岩屋観音@福島市

あらためて「大切なものは何か」と聞かれればおそらく「自由」と答えると思う。が、その自由とは所詮、「東京に住むか福島に住むか、あるいは他の場所に住むかという選択肢があり、私はそのどれも自分の意思で選ぶことができる(=そのための必要最低限の金銭的余裕がある)」という程度のものだ。

むしろ私は何を諦めたか、何を手放せたか、というほうを数えて生きるのもアリなんじゃないか?これは自分探しというより「自分無くし」の旅だけれども、これはこれで道のりは遠い。そもそも目的地に向かって旅しているというアナロジー自体が間違いだ、という話もある。要は探す必要も無くす必要も感じてない状態こそ、理想なんだろうが。でもまあ、これ以上はなにを言っても言葉遊びになるだけだ。

さて、みなさんの夢、大切なもの、は何ですか?

・・・

と、ここまでの大枠は3月上旬に書いたものだ。くだんのラジオ番組が3月初めにオンエアになったのを聞き届けて書いたのだが、なんだか締まりのない文章で公開するのがためらわれた。そのまま放置している1ヶ月の間に、世の中まさかここまでの騒ぎになるとは。

人間だれしも、いつかどこかで何かの理由で死ぬ。これだけはどうしようもない事実だ。交通事故かもしれないし新型ウィルスかもしれない。火事や津波か地震かもしれないし、肺炎やガンや心臓発作かもしれない。私はやっぱりなるべく「お布団の上で笑って死にたい」けれども、そうはいかないかもしれない。個人としてとり得る手立てはすべて講じた、そのうえでやってくる死は、心穏やかに受け入れたい。それが「私の夢」だ。