メメント・モリ(3)

最近、死ぬことばかり考えている。もちろん自殺願望があるわけじゃない。

この夏はテレビで「今日はコロナで何人死にました」と毎日のように聞かされていたが、コロナ以外では何人死んだのか、どうしてそっちはニュースにならないのか、不思議な気がした。

ひとは誰でも死ぬ。いつかは死ぬ。病気か事故か天災か戦争か、わからないけど、必ず死ぬ。運よく事故死や災害死をまぬかれても、ガンか脳卒中かコロナか、わからないけどいつかは間違いなく死ぬ。若くたって運が悪ければ死ぬ。残された者がどんなに辛くても悲しくても、生物にとって「死ぬこと」自体は自然なことだ。それは誰でも知っている、当たり前のことだ。

なのに、いざそのときが近づくと、みな全力でそれを排除しようとする。「死」は忌むべきものとして嫌われ、悪者扱いされる。生物として本能的に死を恐れるのは当然だけれども、必要以上に「死」を攻撃するのはいかがなものか。

もちろん自死には問題があると思う。でもそれとて、たかが200年くらい前までの我が国には切腹や殉死という風習があった。美談として語り継がれてきた年末恒例の「赤穂浪士」は集団自殺の話である(そういえば近年は、年末になっても番組をやらないようだが、自殺を美化しちゃダメという配慮なのかしらん)。人権という概念が定着した近代において殺人は犯罪だが、偉い人の一存で下々の首がカンタンに切り捨てられた時代はそう遠い昔ではない。(ちなみに、新石器時代の埋葬跡を調べると、当時は残虐な暴力死が多かったそうである。)

そんな死に方も含めて人類史のほとんどの時代、というかつい最近まで、「死」はもっと自然でもっと身近なことだった。ワクチンも抗生物質もない時代、大火事だの戦争だの飢饉だのが日常に近かった時代、あっという間にすぐ死んでしまうからこそ、人間はもっと真剣に生きていたんじゃなかろうか。

どこかの製薬会社の「治せない病気はなくなるかもしれない」というCMを見たときは背筋が凍った。恐ろしい病気が治せるのはすばらしい。自分がつらい病に侵されたら、やっぱり治してほしいと思うだろう。でも、ほんとうは人が病気で死ねなくなることの方がもっと恐ろしいのではなかろうか。

私もあと数年で赤いちゃんちゃんこを着る歳になるが、これからはもっと「死」を身近に感じて生きていたいと思う。

ところで人間、死ぬときはやはり両親が迎えに来るんだそうである。だから毎日、父の遺影に「あまり遅くならないうちに適当なところで迎えに来てください」と手を合わせている。それも、いま健康だからこそできることなのだけれど。