紙もいいよね

4月から半年間、文章講座というのを受講した。某全国新聞系の通信教育で、月に一度決められたお題で800字のエッセイを送ると、元記者さんたちが添削してくれる。

告白すると、文章書きは正式なトレーニングを受けたことがない。ずっと企業の広報畑で文章を書いてきて、三十代前半まではまだ上司が直してくれたが、それ以降はむしろ直す側に回ってしまった。フリーになったいま、仕事で書く文章は世に出る前に誰かしらのチェックが入るが、このブログのように自分の好き勝手に書くエッセイの類は、どうしても独りよがりになりがちだ。だから、自分よりも年長で経験豊かな文章のプロに一度見て評価してもらいたいと思って申し込んだのであった。

△そんなある日のガレット。もちろんお店です。

6回終わって結局、期待したほど赤ペンは入らず。そこそこまともな文章だと評価してもらえた、ということにしておこう。それより私にとって良かったことは2つある。ひとつは決まったテーマで書くために想像を膨らます訓練になったこと。「試す」とか「ここ一発」とかいうお題に合うエピソードを、なんとかこのブログの過去記事から探し出して焼き直した回もあった。

もう一つは800字という字数制限のため、とことん推敲して言葉を削る訓練である。ふだん仕事で書くときも推敲で言葉を削っていくが、ほとんどがウェブ媒体なので文字数はあくまでも目安だ。4000字と言われて4500字書いても普通そんなに文句は言われない。プレスリリースもA4一枚に収めるのが基本とはいえ、文字サイズや行間次第でけっこう文字量は調節できる。

ところが、今回の文章講座はきっかり800字。物理的にそれを超えることができない。なぜなら、提出が原稿用紙の郵送だからだ。それも講師の講評欄がついたスペシャルサイズの専用用紙。マス目の数が800字なので、一字下げや改行などしていたら実質書けるのは750字くらいだ。このブログはたいてい600~1000字だから書き慣れた長さなのだが、わかりやすく描写しようと思うとどうしても言葉が多くなる。これを削っていくのは、エッセンスを見極めるとてもいい訓練になった。

さて、原稿用紙が支給されるということはとうぜん手書きが前提である。私のように手書きが無理な人はどうするかというと、ワードで作ってもいいがそれをちゃんと縦書き原稿用紙の仕様でプリントし、専用用紙に貼り付けて郵送せねばならない。最初、この手続きはいかにも前近代的に思えた。理由はひとえに講師の記者OBOGのみなさんがパソコン苦手だからだろうと勝手に推測したが、第1回目の添削が返送されてきたら、講評だってちゃんとワードでタイプアップされ、それがわざわざ専用用紙に合うサイズに縮小して糊付けされてるではないか。そのときは、お互いの手間と苦労がおかしいやらバカバカしいやらで、思わず笑ってしまった。

けども、回を重ねるうちに、この昭和スタイルも悪くないなと思うようになった。恋文でも何でもないのに、封をあけるときのちょっとした期待感。毎回ワードで打った講評の後に手書きで添えられた講師の一言にもほっこりした。なんでも画面上で済んでしまう時代だから、かえって紙もいいよね。がさがさという手触り。折ったり切ったり貼ったりの実物感。紙って、やっぱり好きだな。

もうすぐ、年末年始のあいさつ状の時期がくる。

メメント・モリ(3)

最近、死ぬことばかり考えている。もちろん自殺願望があるわけじゃない。

この夏はテレビで「今日はコロナで何人死にました」と毎日のように聞かされていたが、コロナ以外では何人死んだのか、どうしてそっちはニュースにならないのか、不思議な気がした。

ひとは誰でも死ぬ。いつかは死ぬ。病気か事故か天災か戦争か、わからないけど、必ず死ぬ。運よく事故死や災害死をまぬかれても、ガンか脳卒中かコロナか、わからないけどいつかは間違いなく死ぬ。若くたって運が悪ければ死ぬ。残された者がどんなに辛くても悲しくても、生物にとって「死ぬこと」自体は自然なことだ。それは誰でも知っている、当たり前のことだ。

なのに、いざそのときが近づくと、みな全力でそれを排除しようとする。「死」は忌むべきものとして嫌われ、悪者扱いされる。生物として本能的に死を恐れるのは当然だけれども、必要以上に「死」を攻撃するのはいかがなものか。

もちろん自死には問題があると思う。でもそれとて、たかが200年くらい前までの我が国には切腹や殉死という風習があった。美談として語り継がれてきた年末恒例の「赤穂浪士」は集団自殺の話である(そういえば近年は、年末になっても番組をやらないようだが、自殺を美化しちゃダメという配慮なのかしらん)。人権という概念が定着した近代において殺人は犯罪だが、偉い人の一存で下々の首がカンタンに切り捨てられた時代はそう遠い昔ではない。(ちなみに、新石器時代の埋葬跡を調べると、当時は残虐な暴力死が多かったそうである。)

そんな死に方も含めて人類史のほとんどの時代、というかつい最近まで、「死」はもっと自然でもっと身近なことだった。ワクチンも抗生物質もない時代、大火事だの戦争だの飢饉だのが日常に近かった時代、あっという間にすぐ死んでしまうからこそ、人間はもっと真剣に生きていたんじゃなかろうか。

どこかの製薬会社の「治せない病気はなくなるかもしれない」というCMを見たときは背筋が凍った。恐ろしい病気が治せるのはすばらしい。自分がつらい病に侵されたら、やっぱり治してほしいと思うだろう。でも、ほんとうは人が病気で死ねなくなることの方がもっと恐ろしいのではなかろうか。

私もあと数年で赤いちゃんちゃんこを着る歳になるが、これからはもっと「死」を身近に感じて生きていたいと思う。

ところで人間、死ぬときはやはり両親が迎えに来るんだそうである。だから毎日、父の遺影に「あまり遅くならないうちに適当なところで迎えに来てください」と手を合わせている。それも、いま健康だからこそできることなのだけれど。