もしもコロナにかかったら

お彼岸で川崎の実家に帰省。ひと月ぶりの東北新幹線は明らかに乗客数が増えていた。東京駅の人混みも、コロナ前ほどではないがかなり戻ってきている印象だった。うちの菩提寺はなぜか東京都新宿区にある。墓参りには母と弟と3人、弟の運転する車で出かけたが、ふだんの週末ならさほど混まないはずの首都高が大渋滞。その帰り、甥っ子たちに進学祝いを渡すべく弟の家の近くのファミレスで集合したが、そこも順番待ちの大盛況であった。

これでもし私がコロナに感染したら、どれほど非難を浴び、どれほど肩身の狭い思いをし、周りにどれほど謝罪しないといけないだろうか・・・などと思いながら翌日東京駅へ向かう京浜東北線に揺られていた。

▲季節外れですいません。これは昨年11月、父の四十九日のときに菩提寺に咲いていたバラ。

マスク手洗い、家族以外との会食回避などの予防を心掛けたとしても、人との接触を100%断たない限り感染する可能性はあり、それはもう不可抗力である。不可抗力なら責任の取りようがない。取りようがないなら謝りようがない。しかし理屈はそうでも、もし自分が感染したら私はやはり周囲に対して平身低頭「ご心配ご迷惑をかけた」といって詫びるであろう。そして私が所属する集団(たとえばバイト先)が今度は、世間に対して「ご心配ご迷惑をかけた」といって謝罪しなければならないだろう。

この「世間」という言葉が英訳しにくいのは良く知られた話だと思うが(society=社会とはニュアンスが違う)、日本では自分自身に非(責任)はなくても、「世間をお騒がせした」(=秩序を乱した)ことに対して謝罪するのはごく当然と考えられている。だから、成人した子の不始末を両親が謝罪する。社員が職務とは無関係のプライベートで起こした不始末を社長が謝罪する。

思い起こせば10年ちょっと前、私が外国大学の広報をしていたとき、日本の有名私大の学生が自宅で大麻を栽培していたというので逮捕され、その学長が記者会見する事態となった。このとき私は当然「もしも我が校だったら」と脳内シミュレーションしたわけだが、学長が出てきて「世間をお騒がせしてすみません」ということにはどうしても違和感を持った。学生一人ひとりの私生活まで大学が責任を持てるわけない。でも世間(マスコミ)は暗にそれを求めたし、当時私が参照していた企業向け広報マニュアルでもたしかに、なにか事件が発覚した時はその真相がわかる前でも「まずはとにかく謝罪すべし」と書いてあった。それを要求するのは法律や客観的ロジックとは別次元の何かだ。

▲図書館で手に取った本。中には「うーん、それはどうかな?」と思える記述もあったが、総じて私が漠然と感じていた違和感が明快に言語化されていた。「責任」の捉え方についての歴史的変遷の考察もたいへん興味深かった。一読をオススメ。

「コロナ差別」が問題となり日本の同調圧力の異常さを論じる言説も見られるけれど、「迷惑をかけた=集団の秩序を乱した」場合に受けるであろう集団リンチへの恐怖は、私自身を含めて日本人の遺伝子レベルに埋め込まれているように感じる。あえて言えば同調圧力からの自由度には若干の男女差があって、女性(とか外国人)の方が比較的自由な分、男性から見れば「わきまえない」とか「忖度しない」とかいうことになるのかもしれない。

・・・などと考えながら私はやっぱり、川崎駅の混雑したエスカレーターで「右側を一列開ける」(東日本なので)という理不尽な同調圧力に負けたのであった。

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