映画「Fukushima 50」を観てきた。
いろんな見方があろう。福島県民と県外の人、同じ県内でも浜通りと中通りの人、避難区域にいた人とそうでない人。受け取り方、感じ方は違うと思う。でもやはり、この映画が世に出た意味はあると思うし、多くの人に観てほしいと感じた。
映画の冒頭に「これは事実に基づいた物語です」という断りが入るとおり、ノンフィクションとはいっても、当たり前だが一定の脚色は施されている。ほんとうに事実を知る人たちにとっては、一種の気持ち悪さを感じるところもあるかもしれない。私が浪江町役場で広報の手伝いをしていたとき、大震災直後の浪江町を題材にした、ある芝居の脚本の確認依頼を受けたことがあった。あの日あの時浪江にいたわけではない私に真偽の判断はできないので、当時を知る周りの職員に聞くと、やはり細かいセッティングが「事実と違う」部分は多かった。しかし、突っ込み始めればきりがない。このときも「事実に基づく物語」という一文を入れてもらうことで決着した。
映画も芝居も、報告書や記録誌とは違う。その意図は別のところにある。私が感じたこの映画の意図は、あの日あの時あなた自身は何処にいて、何をして何を考えたか、もう一度思い出せということだった。
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9年前の3月11日金曜日。私は東京・南麻布にある、テンプル大学という米国大学の日本校の広報をやっていた。大学といっても普通のオフィスビルに入居しており、私のオフィスは4階だった。東京もたしか震度5強だったか、今までと違う大きさの揺れにあわてて階段を降り、道路に出た。今でこそ「あわてて外に出ず、まず机の下」が常識なのだろうが、そんな心の準備はなかった。当時は直前にニュージーランドで地震が起き、建物倒壊のシーンが記憶に新しかったこともある。
このとき、詳細は覚えていないが私はおそらく、真っ先にオフィスを飛び出したのだ。当時、私はスタッフ5人を持つマネージャーだった。日本の大学と違って春休みではなかったので、同じフロアに学生たちもたくさんいた。隣は学長室だ。なのに、気が動転した私はスタッフや学生を先に逃がすでもなく、どんな行動をとるかを学長と話すでもなく、我先に階段を駆け下りたような気がする。
結果的に建物はまったく無事で、スタッフも学生もケガ人などは出ていない。が、しばらくして「自分は曲りなりにも上長のくせに真っ先に逃げた」ということに気づいたときの、あの恥ずかしさ。しょせん自分はこの程度の人間なんだという気づきは、どれほど受け入れ難くても真実だった。
こんな話を書いても恥さらしなだけだが、映画Fukushima 50はあらためてそれを思い出させてくれたし、それにフタをしてきた自分にもう一度向き合う機会をくれた。向き合って、受け入れられれば、先に進める。
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震災後の2週間ほどは、文字通り映画の中にいるような感覚だった。学生も教職員たちも外国人が多い。アメリカだけでなく多国籍だ。みな自国大使館の飛ばすチャーター機で、あるいは自力で、どんどん西へ、国外へ出ていった。木曜日にはテンプル大の米国本校がチャーター機を飛ばし、残った外国人学生を逃がした。同時に、日本人学生向けには関西方面へ向かうバスがチャーターされた。
混乱のさなか、アメリカ人の学長と日本人の副学長、そして私と3人で学長室に集まり、もうこれで終わりかもしれない、といって涙したのを覚えている。もちろん、Fukushima 50 の同じセリフとは意味も重さも違うのだが、そういう気分だったことは確かだ。
そして計画停電。私は自宅も職場も23区内だったから免れたが、川崎の実家に帰ったとき一度だけ、3時間の停電を経験した。午後3時、いっせいに電気が消える。ぜんぶ信号の消えた道の不気味さ。たかが3時間だが、あれを体験できたことを今となっては有難いとさえ思う。
あのとき、考えたのだ。私たちは電気がどれほど必要なのか。その必要な電気を賄うため原発は本当に必要なのか。知らないなりに考えたのだ。原発に賛成でも反対でもいいから、自信をもってその理由を言えるようになること。そのために考え続けることの大事さを、この映画は思い出させてくれた。
災害があるたびに、残された人たちが何かを学びますように。残された私が何かを学びますように。