写真のないブログ

朝、カーテンを開けたら陽がまぶしい。快晴。なのに、彼方の吾妻連峰が今日は見えない。もったりとした綿帽子のような雪雲が里の方まで降りてきている。散歩に出たら案の定、吹き下ろしてくる風に仁丹のような氷の粒が運ばれてきて、ぷち、ぷち、ぷちと身体に当たった。

山の向こう、会津のほうは今年最後の雪か。それでも地球はちゃんと公転を続けている。

散歩コースの荒川土手は、この辺りで河川敷がだいぶ幅広になっていて、そこにかなり背の高い木々も生えている。何という落葉樹か知らないが、まるで広げた手のひらの動脈のように枝が下の方から分かれていて、今の時期、その毛細血管の先から薄緑色の小さく柔らかな炎がゆらゆらと育っていく。

まもなく、今は死んだように見える無数の下草たちも自然のままに青くよみがえり、鳥たちの格好の隠れ家になる。

それでも今年少し様子が違うのは、木々の根元に去年の台風で上流から流れてきた枝や蔓や根っこなんかが鳥の巣のように絡みついたままになっていることだ。「巣」の背丈はおそらく私のそれよりも高い。下草たちもなんとなく、下流にむけて身体を傾げたままになっている。この辺りでは幸い水が土手を越えることはなかったが、河川敷の背の低い草木たちは全身水の下で必死に土にしがみ付いていたのだろう。

東に向かって朝の土手を歩くと、まだ茂らない木々の枝を透かして荒川がきらきらする。乳白がかった薄青色の水面にラメを散らしたような光の粒が揺れるのは、晴れの日ならばいつものことだが、今日のような風の強い日はそのラメが、まるで川中を光る太刀魚が泳ぐかのように一直線に並んで動いたりする。

風景は穏やかな一瞬の連続だ。

今回は敢えて写真を使わずにおく。ふだん私が仕事で書く文章は人の話や会社の話、ブログで書くのも世間の話やたわいもない自分の経験話であって、こうして目の前の情景をただ描写するという作業はほとんどすることがない。今どきなんでもかんでも写真一枚載せれば済む。なんなら最近は動く画も使える。百聞ならぬ百文が一見に如かないのは当然であっても、一方でそうやって百の文章を紡ぐための語彙力表現力は確実に失われつつあると思う。

これからプロの作家になろうというわけではないが、人間いくつになっても目標は大事である。畏れ多くもかの石牟礼道子さんのような表現領域にほんの僅かでも近づきたいと、このたび性根の入れ替えを決心した。まずはいつもの荒川土手の風景で練習を始めてみた次第である。

いつもお読みくださっているみなさま、ありがとうございます。これからこういう投稿も増えるかもしれませんです。引き続きよろしくお付き合いいたけましたら幸いです。mm

9周年回顧

世の中テレワークとやらが流行りだが、もともと「家で仕事」が基本の私は大して違和感を感じていない。ただ、仕事が端境期で時間がたっぷりある。そこで唐突だが、今回は思い出話をしようと思う。

4年くらい前のこと。当時、原発事故で全町避難中だった自治体の手伝いをしていたとき、役場にはいろんな電話がかかってきた。その中には、町民が避難している先の県内自治体住民からの「お前らはけしからん」という電話もあった。

一時期、毎日のようにかけてくる年配の女性がいた。「あんたら住民税も払っていないくせにゴミ出しがなってない。あんたら高速道路も医療費もタダだから、あんたらのおかげで病院は大混雑で迷惑だ。あんたら賠償金で御殿を建てたと思ったらこんどは高級車かい。(熊本地震があったときは)あの人たちはあんなに大変な思いをしてるのに賠償金なんか一円ももらってないんだ、あんたらもらった金を熊本の被災者へ送れ。」等々。

こちらはひたすら、はい、はい、と聞き続けるしかない。最初はただ難儀だなあと思っていたが、そのうち複雑な気分になった。その女性はときに1時間以上もそうやって思いのたけをぶちまけると、最後には我に帰って言うのだ。

「どうしてこんなことになっちゃったのかねえ・・・」

続けて、「あんたたちも大変だね、がんばりなさいよ」などと言うときもあった。実際はその女性も「被害者」なのだ。気の毒だと思った。

同じ福島県内でも、さらに同じ自治体の中でも、放射性物質による汚染度合によってナントカ区域・ナントカ区域というものに分けられた。そもそも汚染の濃淡が行政区の境とぴったり合致しているわけもないのに、その線引きに従って賠償金が出るかどうか、出る場合もその多寡が決まった。道路一本挟んでという状態がたくさん生まれた。

おカネが絡むと変わってしまう人は多い。その女性の気持ちもよくわかる。こんなことがなければ、おそらくクレーム電話を長々とかけてくるような人ではなかったのだろうと思う。

同じころ、町民に対して国から避難指示を解除したいという説明をする、一連の「住民説明会」というものが行われ、私も役場職員として何回か出席した。といっても私はもちろん会場設営スタッフの一人であって、檀上で説明する側の立場ではないのだが、あれほど「いたたまれない場所」を経験したことはなかった。

意見を言う多くの人が解除に反対だった。反対意見というよりは怒りの表現だった。受け答えはどこまでもかみ合わなかった。ほんとうは放射線量が心配だからではない、解除されて避難区域でなくなったら賠償金がもらえなくなるから反対なんだろう、という揶揄も世間にはあった。実際、解除の是非を話し合うはずの場で、発言は賠償金にも及ぶことが少なくなかった。「どうして●●町と●●町とでは同じ●●なのに賠償金の扱いが違うのか」等々。

やっぱりカネなのか。

いや違う。ほんとうはカネの話なんかではない。元に戻せと言ってもどうやっても元に戻せないことはわかっている切なさ。結局カネでしか落とし前のつけられない悔しさ、無念さの発露だったのだと思う。

とはいえそのカネ自身がまた、一種の麻薬になり得る。あれから9年。賠償金も補助金も税の減免もそうだ。それがなければやっていけない状態がそれほど長期間続けば、「中毒」になってしまったとしてどうして責められよう。

もちろんそうならず、想像を絶する努力で自ら道を切り開き、がんばっている人たちは少なくない。そこに「希望」を見出し、彼らを応援すればいい。実際、私はそういう人たちの話をたくさん書く機会をもらってきた。マスコミの「3.11から9周年」特集は新型コロナのせいもあって至極控えめに見えたが、そういう「希望」を扱う記事も多少は全国の人の目に触れたはずだ。

が、一歩ひいてマクロで眺めるとどうか。いまだに帰還困難区域が残っているという現実だけからいっても「福島の復興は道半ば」なのは客観的事実だ。けれども、おカネが途切れると困るから「まだまだ復興してません」と言い続けなければならないとすればアリ地獄である。少し前、同じ首都圏からの移住組ライターのYさんとこの話題を話していて、「ほんとうは復興なんてしないほうがいいんだ」と口走った自分に、自分で驚いた。

なんでそんなことが口をついたのか。その理由の少なくとも一部は、おそらく、私自身も「復興予算」という名目で降りてくるお金のおこぼれを預かる仕事をしているからだ。そういう仕事に対するとき、ある種の使命感に加えて、私が「フクシマという特殊な環境」の内にいることを自分の「付加価値」の一部にしようとしていることは否めない。だから「特殊」でなくなると困るのである。旧避難区域から70キロ以上離れた県都・福島市に住むお気楽ライター稼業の私が、こうなのだ。

こんなことは書いてはいけないことだった。書いてもしかたないからだ。福島にはこんなフクザツな問題がある、ということを知ってもらったとして、だからそれが何につながるというのだ。

同じ社会問題でも、たとえば児童虐待とかプラスチックごみとかの話であれば、それについて発信し社会的関心を高めることで政治イシューになり、やがてなんらかの政策につながるかもしれない。あるいはそうした問題について個人の意識が高まり、行動の変化が課題解決につながるかもしれない。

だけれども、この、おカネによっておかしなことになっていく福島の(一部の)問題というのは、当事者以外が知ったところで「大変ねえ」としか言いようがなかろう。既にこの地の「問題解決」のために、国のおカネはこれ以上ないほど注ぎ込まれている。日本社会がこの現状を他山の石として学ぶことがあるとすれば、いったい何なのだ。これほど多くの人を苦しめてきた事象から得られる教訓は?同じことを繰り返さないための教訓は?

どうしてこんなことなっちゃったのか・・・

繰り返す以外に今の私に答えはない。新型コロナ禍の裏で、数々の問題は静かに進行していく。

フクシマフィフティ

映画「Fukushima 50」を観てきた。

いろんな見方があろう。福島県民と県外の人、同じ県内でも浜通りと中通りの人、避難区域にいた人とそうでない人。受け取り方、感じ方は違うと思う。でもやはり、この映画が世に出た意味はあると思うし、多くの人に観てほしいと感じた。

映画の冒頭に「これは事実に基づいた物語です」という断りが入るとおり、ノンフィクションとはいっても、当たり前だが一定の脚色は施されている。ほんとうに事実を知る人たちにとっては、一種の気持ち悪さを感じるところもあるかもしれない。私が浪江町役場で広報の手伝いをしていたとき、大震災直後の浪江町を題材にした、ある芝居の脚本の確認依頼を受けたことがあった。あの日あの時浪江にいたわけではない私に真偽の判断はできないので、当時を知る周りの職員に聞くと、やはり細かいセッティングが「事実と違う」部分は多かった。しかし、突っ込み始めればきりがない。このときも「事実に基づく物語」という一文を入れてもらうことで決着した。

映画も芝居も、報告書や記録誌とは違う。その意図は別のところにある。私が感じたこの映画の意図は、あの日あの時あなた自身は何処にいて、何をして何を考えたか、もう一度思い出せということだった。

9年前の3月11日金曜日。私は東京・南麻布にある、テンプル大学という米国大学の日本校の広報をやっていた。大学といっても普通のオフィスビルに入居しており、私のオフィスは4階だった。東京もたしか震度5強だったか、今までと違う大きさの揺れにあわてて階段を降り、道路に出た。今でこそ「あわてて外に出ず、まず机の下」が常識なのだろうが、そんな心の準備はなかった。当時は直前にニュージーランドで地震が起き、建物倒壊のシーンが記憶に新しかったこともある。

このとき、詳細は覚えていないが私はおそらく、真っ先にオフィスを飛び出したのだ。当時、私はスタッフ5人を持つマネージャーだった。日本の大学と違って春休みではなかったので、同じフロアに学生たちもたくさんいた。隣は学長室だ。なのに、気が動転した私はスタッフや学生を先に逃がすでもなく、どんな行動をとるかを学長と話すでもなく、我先に階段を駆け下りたような気がする。

結果的に建物はまったく無事で、スタッフも学生もケガ人などは出ていない。が、しばらくして「自分は曲りなりにも上長のくせに真っ先に逃げた」ということに気づいたときの、あの恥ずかしさ。しょせん自分はこの程度の人間なんだという気づきは、どれほど受け入れ難くても真実だった。

こんな話を書いても恥さらしなだけだが、映画Fukushima 50はあらためてそれを思い出させてくれたし、それにフタをしてきた自分にもう一度向き合う機会をくれた。だから敢えてコクる。向き合って、受け入れられれば、先に進める。

震災後の2週間ほどは、文字通り映画の中にいるような感覚だった。学生も教職員たちも外国人が多い。アメリカだけでなく多国籍だ。みな自国大使館の飛ばすチャーター機で、あるいは自力で、どんどん西へ、国外へ出ていった。木曜日にはテンプル大の米国本校がチャーター機を飛ばし、残った外国人学生を逃がした。同時に、日本人学生向けには関西方面へ向かうバスがチャーターされた。

混乱のさなか、アメリカ人の学長と日本人の副学長、そして私と3人で学長室に集まり、もうこれで終わりかもしれない、といって涙したのを覚えている。もちろん、Fukushima 50 の同じセリフとは意味も重さも違うのだが、そういう気分だったことは確かだ。

そして計画停電。私は自宅も職場も23区内だったから免れたが、川崎の実家に帰ったとき一度だけ、3時間の停電を経験した。午後3時、いっせいに電気が消える。ぜんぶ信号の消えた道の不気味さ。たかが3時間だが、あれを体験できたことを今となっては有難いとさえ思う。

あのとき、考えたのだ。私たちは電気がどれほど必要なのか。その必要な電気を賄うため原発は本当に必要なのか。知らないなりに考えたのだ。原発に賛成でも反対でもいいから、自信をもってその理由を言えるようになること。そのために考え続けることの大事さを、この映画は思い出させてくれた。

災害があるたびに、残された人たちが何かを学びますように。残された私が何かを学びますように。